聖書を開こう 2004年11月4日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 終末の希望(1テサロニケ4:13-14)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教では世の終わりの時にイエス・キリストが再び来てくださることを信じています。それを「キリストの再臨」と呼んでいます。そのキリストの再臨の時が一体いつ来るのかは、誰にもわかりません。イエス・キリストによれば、ご自分も知らないのです。ただ、父なる神だけがご存知のことです。
 しかし、はっきりしていることは、その日が必ずやって来るということです。しかも、そのことが起るのは、決して遠い未来ではなく、いつ起っても不思議ではないくらいに緊迫している出来事なのだということです。
 そのような緊張感の中で生きていたテサロニケの教会の中に、自分たちの予想もしていなかった出来事が起りました。その問題について取り上げたのが、きょうの個所です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 4章13節14節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」

 今お読みしました4章13節からはじまって、5章の11節まで、パウロは世の終わりの問題について取りあげます。テサロニケの教会が世の終わりについて希望をもった教会であることを、パウロは手紙の中で今までに何度か触れて来ました。そういう意味で、世の終わりについての教えがこの手紙の中にあるのは本当に自然なことです。むしろ、終末についての教えがない方が不自然です。ただ、パウロがこの問題をここで取り上げるのはテサロニケの教会で起った具体的な事件に関係があります。その問題と言うのは「既に眠りについた人たちについて」の問題です。
 ここでいう「既に眠りについた人たち」というのは、ずっとはるか昔に亡くなった人たちの事を問題にしているのではありません。そうではなくて、キリストを信じて洗礼を受け、再臨の時を待たないで死んでいった同世代の人たちの問題です。というのも、テサロニケの教会の人々はどんなに遅くとも自分たちが生きている間にはキリストの再臨が起るものと信じていたからです 。確かに、主イエス・キリストが再び来てくださるのは、いつの時点に起るとしても、早すぎるということはないほどに、差し迫ったものとして教えられていました。そういう意味では、再臨のキリストを迎える準備をのんびりと先へ伸ばすことはできません。いつも目を覚まして備えていなければならないのです。
 しかし、そういう緊張感から、いつしか、キリストの再臨は自分たちの生きている間に起ると考えるようになったのでしょう。そう考えていたのですから、キリストの再臨を待たないで亡くなってしまった教会員たちをどう受け止めたらよいのか、非常に困惑するような状況が起ったのです。果たしてその人は再臨のときにどうなってしまうのでしょうか。テサロニケの教会の人々には考えてもみなかったことだったのです。
 パウロはこの段落を書き始めるに当たって、「あなた方が無知であることを望まない」という書き出しで段落を始めます。今まで、テサロニケの教会の人たちは世の終わりについての教えや希望について、まったく無知であったのかというと、決してそうではありませんでした。この手紙の冒頭部分で、パウロはテサロニケの教会の人たちを「主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐している」者(1:3)。また「御子が天からこられるのを待ち望む」者(1:10)として描いています。ですから、世の終わりの希望についてはよく知っていたはずです。しかし、予想外の事態に、まるで希望をもたない者のように嘆き悲しむ者となってしまったので、パウロは「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」と勧めます。
 パウロはここでテサロニケの教会員たちの無知を嘆いているのでは決してありません。そうではなく、予想もしなかった事態に困惑し、嘆き悲しんでいるテサロニケの教会員たちを励まそうとしているのです。しかも、その嘆き悲しみは彼らの誤解から来ているものなので、正しい教えを伝えることで彼らに希望と慰めを与えようとしているのです。
 パウロはこまごまとしたことを述べる前に、まず大前提となるキリスト教の信仰箇条に訴えます。
 「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています」
 これは紛れもない事実であると同時にキリスト教の信仰の中核をなすものです。パウロは別の手紙の中でも、「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしい」(1コリント15:17)と述べています。このキリストの復活と言う事実の上にたって、パウロはこう結論を引き出します。

 「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」

 確かに、テサロニケの教会の人たちは、自分たちの時代にキリストが再臨するに違いないと思い込んでいたようです。そのこと事態が間違った期待なのですが、パウロはキリストの再臨の時期については何も触れずに、もっと大切な点からこの問題を扱っているのです。
 キリストの再臨のときに、生きて再臨の主を迎えるのか、そのときには既に死んでしまっているのかは、重要な問題ではないからです。むしろ、大切なことは、キリストを信じる者たちが、キリストと共に死に、キリストによってキリストと共に復活する存在であると言うことなのです。この希望から目をそらすときに、たちまちわたしたちの希望は力を失ってしまいます。

 テサロニケの教会の時代からはるか隔たった時代に生きるわたしたちには、もはや、テサロニケの教会で起ったような、既に眠りについた信者に対する疑問も驚きもありません。しかし、あの時以来繰り返されるクリスチャンの死を前に、キリストによる復活の希望がどこか薄らいでしまうとしたら、それこそ憂えるべきことです。
 復活のキリストに望みをおくとき、わたしたちの終わりにも希望をもちつづけることができるのです。

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