聖書を開こう 2004年9月23日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神の言葉を受け入れるとき(1テサロニケ2:13-16)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書は神の言葉であるといわれています。今を生きる私たちクリスチャンが神の言葉を聞くというとき、普通はこの聖書の言葉に耳を傾けることを言います。しかし、教会の礼拝の中で神の言葉が正しく語られているかどうかという場合には、ただ単に聖書朗読が正しくなされているかどうかということが問題なのではありません。聖書の解き明かしである説教が、純粋に神の言葉を伝えているかどうか、そのことが問題となります。御言葉が正しく解き明かされ語られるとき、説教をしているのは人間である牧師ですが、そこで聴かれているのは、人間の言葉ではなく、神の言葉なのです。
 この不思議な出来事はパウロの説教を受け入れたテサロニケの人々の中にも起りました。
 
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 2章13節から16節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。」

 きょう取り上げる個所では、再びパウロたちの感謝の気持ちが言い表されます。パウロの手紙では、どの手紙でも大抵は手紙の冒頭部分にまず感謝の言葉が述べられています。しかし、この手紙では、冒頭部分の感謝の言葉はもちろんのこと、再び感謝の気持ちが表明されます。
 しかも、きょうの取り上げた個所は、感謝ばかりか、ある程度すでにこの手紙の中で触れたことを繰り返しています。たとえばきょうの個所に出てくる「神の言葉を受け入れた」ということに関しては、1章6節で「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れた」ということが既に言及されています。また、「ユダヤの諸教会に倣う者になった」と言うことに関しても、同じ1章6節で「わたしたちに倣う者となった」と述べられています。苦しみについても同じ個所ですでに言及されています。
 このような繰り返しは無駄な繰り返しなのではなく、むしろ重要なことであるからこそ、繰り返しパウロはこれらの事柄に触れているのでしょう。

 さて、1章6節では、テサロニケの人たちは「ひどい苦しみの中で聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れた」といわれています。ここ2章13節では、その御言葉は使徒たちの口を通して語られたのですが、それを人間の言葉としてではなく、神の言葉としてテサロニケの人たちが聞いたと記されています。そして、そのことをパウロは何よりも神に感謝すると述べているのです。
 テサロニケへ直接の伝道活動をし、神の言葉を伝えたのはほかならぬパウロたちです。しかし、彼らを通して働いていらっしゃったのは神ご自身であり、聞かれた言葉は人間パウロの言葉ではなく、神ご自身の言葉だったのです。パウロは自分たちの働きを自分で褒め称えることもせず、また、自分たちの話が受け入れられたことを喜んでいるのでもありません。自分たちの働きを一気に背景へと押しやって、そこで働いてくださっている神を前面に押し出して、この神にふさわしい感謝を捧げているのです。
 これは福音を宣べ伝えている者にとって、いつも感じさせられることです。この拙い者の口を通して語られる神の言葉が、拙い人間の言葉としてではなく、力強い神の言葉として、その人の内にしっかりと根付く時、目には見ることは出来なくても、そこに確かに力強く働いて下さる神がいてくださることを感じることが出来るのです。そして、このようにわたしたちと共に働いていてくださる神の力に気がつくとき、まさにパウロがしたのと同じように感謝の思いが満ち溢れます。
 神の言葉を伝えると言うことは、自分自身を神に用いていただくと同時に、その自分を通して働かれる神の御業を注意深く見守ることでもあるように思います。

 さて、神の言葉を受け入れた結果、テサロニケの教会員たちも正しく神の諸教会に倣う者となりました。しかし、それは穏やかな暮らしに入ったということではありませんでした。むしろ、神の諸教会に倣うとは、苦しみの道を共に歩むという点で、神の諸教会に倣うものとなったのです。誰しも悩み苦しみからの解放を願って教会の門を叩くものです。教会の一員となることで平安が宿ることを願うものです。しかし、すでに、主イエス・キリストがおっしゃっているように、迫害は避けることが出来ないものなのです。イエス・キリストがおっしゃるようにイエス・キリストのために「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」のです。
 迫害は大きなものであれ小さなものであれ、クリスチャンに苦しみを与えるものであるかもしれません。しかし、それは必ずしもクリスチャンの心から平安を奪い、喜びを取り去るものではありません。またそうであればこそ、主イエスは「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」とおっしゃっていらっしゃるのです。
 現に1章6節でパウロはテサロニケの教会員たちが「苦しみの中で喜びをもって神の言葉を受け入れた」と述べています。

 ところで、15節と16節は、パウロにしては随分と激しくユダヤ人を非難しています。パウロ自身がその手紙の中でイエス・キリストの死とユダヤ人の責任を直接扱うことはありません。そういう意味ではこの個所は非常に珍しい個所であるかもしれません。確かに使徒言行録に記されたテサロニケでの宣教の様子を読むかぎりでは、ユダヤ人たちに対して激しい非難の言葉が出てくるのも理解できなくはありません。しかし、ユダヤ人たちの振る舞いに対して、パウロは具体的にどうこうするようにという行動を呼びかけているわけではないことに注意する必要があります。ここでの中心はユダヤ人の断罪ではなく、むしろ、苦しみの中でも神の言葉を受け入れ、諸教会に倣う者となったテサロニケの教会のことで、神に対してパウロがどれほどの感謝を捧げているかということなのです。
 一人の人が神の言葉を受け入れ、苦しみの中にあっても信仰をもちつづけることの中に、わたしたちも神の大きな働きを見るものとなりましょう。

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