メッセージ: 豊かな実(フィリピ4:14-20)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
初めて教会の礼拝に出席するときに、礼拝の時に捧げる献金に戸惑われる方も多いのではないかと思います。
大抵の教会では説教のすぐ後に献金を捧げる時間がもたれます。これは古い時代の名残で、大昔の教会では、説教が終わった後に、求道者を除いた信徒だけの主の聖晩餐の礼拝がもたれていました。その信徒だけの礼拝の最初に献げ物を捧げる時間がもたれたのでした。つまり、献げ物を捧げるのは説教の後なのではなく、新しい礼拝の最初なのです。ところが、この二つの礼拝の区別がいつしか失われるようになって、献金が説教の後にすぐ続くような形になってしまったのです。
こうした教会の事情を知らない人たちにとっては、まるで献金は説教を聴いた御代か何かのように受け取られてしまいがちです。特に初めて教会の礼拝に出席した人にとってはそういう印象を持ってしまうかもしれません。
さて、フィリピの教会の人たちはパウロの伝道を支えるために贈り物を捧げて来ました。その贈り物の意味をパウロはどのように理解し、受け取ってきたのでしょうか。きょうの個所から共に学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書フィリピの信徒への手紙 4章14節から20節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」
きょうお読みした個所は、前回の続きからですので、ちょっと中途半端でわかりにくいかもしれません。
前回もお話しましたが、この個所でパウロはフィリピの教会員たちが送ってよこした贈り物を受け取って、感謝の気持ちを表しています。しかし、お礼の言葉そのものをパウロは書いていませんので、「感謝なき感謝」などと呼ばれている個所です。パウロがこのような書き方をしたというのも、フィリピの教会の人たちに誤解を与えたくなかったからです。きょうの個所にも書いてあったとおり、「贈り物を当てにして」何かを言っているのではないか、と思われたくなかったのです。そこで、パウロはフィリピの人たちが送ってよこした贈り物が、フィリピの教会の人たちの心をどのように表しているのか、またそれが、神によってどのように受け取られているのかを丁寧に語っています。
前回の個所の冒頭でパウロは、フィリピの教会の人たちが贈り物を送ることで自分への関心を再びあらわしたことを非常に嬉しく思ったと記していました。しかし、パウロはそれをただ単に自分への個人的な関心の表れと受け取ったのではありません。
きょうお読みした個所の冒頭分部に記されているとおり、フィリピの教会からの贈り物は、それによってパウロの働きに与るものだったのです。しかも、その働きは苦難に満ちたものでした。パウロにとっては、この贈り物を通して、フィリピの教会の人たちが、神から委ねられた福音宣教の苦労に、パウロと共に与かる心意気であることを感じたのです。パウロがフィリピの教会の贈り物を主において非常に喜んだ理由は、何を置いてもその点にあったのです。
フィリピの教会の構成がどんな社会構成の人たちから成り立っているのかは、詳しくはわかりません。しかし、彼らが裕福だからパウロの働きを継続して支えたと考えるべきではないでしょう。
パウロは「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と書いていますが、おそらく度々贈り物を捧げてパウロを支えることは、フィリピの人たちにとって決して楽なことではなかったことでしょう。そういう意味では、パウロと共に本当に苦しみを分かち合った仲と言うことができると思います。
使徒言行録の記事を読む限り、フィリピの教会は決して十分に育て上げられた教会ではありませんでした。ほんの短い期間しかパウロによって訓練を受けなかったにもかかわらず、次の伝道地にいるパウロのために一度ならず援助の手を差し伸べてきたのです。
パウロはこうしたフィリピの教会の人たちからの贈り物を「香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえ」であると表現しています。つまり、この贈り物のやり取りを、パウロは決してフィリピ教会と自分との間のやり取りとは考えていなかったのです、むしろ、それらが、神への捧げ物であり、それは神への献身の表れであるとパウロは受け止めたのです。パウロがフィリピの教会からの贈り物を主において非常に喜んだ、もう一つの理由はここにありました。そもそも、どんな捧げ物であれ、それは捧げる人そのものを表しています。パウロはフィリピの教会の捧げ物の中に、彼らの神へ向かう姿勢を感じ取ったのです。その姿勢を喜び神に感謝しているのです。
ところでパウロは、もの欲しさや贈り物を当てにして何かを言っているのではないと繰り返し述べていますが、では、何を望んでいるいるのでしょうか。パウロはこう述べます。
「むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」
パウロは3章で「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞」について語っていましたが、パウロが目指すところは救いの完成の時にどんな実を結ぶのかと言うことです。確かにフィリピの教会からの贈り物によってパウロは大いに助けられたことでしょう。しかし、パウロが望んでいることは贈り物に支えられて自分が豊かになることではなく、フィリピの教会の人たちが救いの完成の日に豊かな実を結ぶことなのです。
フィリピの教会に関して言えば、パウロは「自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができる」と確信しています。
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