聖書を開こう 2004年7月15日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 喜びなさい(フィリピ4:4-7)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 穏やかな顔と険しい顔とでは、やはり穏やかな顔つきの方が見ていて心が和みます。もちろん、人は自分の顔を選ぶことが出来ませんから、生まれついた顔のことをどうこう言っても始まりません、しかし、顔の表情はその人の内面を映し出すこともありますから、険しい顔つきにならない心のあり方をいつもお心がけていきたいものだと思います。
 わたしが初めて教会へ行った日のことを今でもはっきりと思い出すことが出来ますが、その場面に出てくる教会員の顔はどの顔もとても穏やかな印象でした。それはわたしがこの場所に受け入れられているという安心感を与えるものでした。それは深い内面から来るものに違いないとそのとき思いました。
 あの時から30年が経ちますが、果たして自分の品性がその人たちのように練り上げられてきたのかどうか、自分で気が付くことは出来ません。ただ、その秘訣がどこにあるのか、30年間、聖書の御言葉を通して教えられてきたと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書フィリピの信徒への手紙 4章4節から7節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

 このフィリピの信徒への手紙は、しばしは喜びの手紙と呼ばれています。それは、この手紙の中に「喜び」に関する言葉がたくさん出てくるからです。それほどにこの手紙には喜びが溢れています。そして、先ほど読んだ個所にも「喜びなさい」という勧めの言葉が記されていました。
 この「喜びなさい」という勧めの言葉は3章の1節で既に命じられている事柄です。このように繰り返して命じられるほどにパウロにとって喜びはクリスチャン生活に欠かせない大切な要素と言うことが出来ます。

 パウロは「常に」喜びなさいと命じています。もちろん、人間の生活の中には、悲しいこともあれば、腹の立つようなこともあります。毎日が楽しいことばかりとは限りません。深刻な事態の中で、いつもへらへらにやにやと笑っていることが求められているわけではありません。まして、人生、嬉しいことや喜ばしいことだけを求めて生きるようにという勧めでもありません。きっと遭遇する悲しみや怒りというものは、クリスチャンもそうでない人も、そんなに変わりはないことでしょう。ちがうとすれば、そのような状況の中で心の奥深くにある喜びをどう失わないかと言うことです。

 パウロは「主において」喜びなさいと勧めています。どう喜びを失わずに生きるのか、それはこの喜びが主イエス・キリストと深く結びついていることを忘れないことです。わたしたちが日常の生活の中で嬉しいと感じること、喜びと感じることの大半は、一時的、一回的なことに過ぎません。たとえば、試験に合格した、素敵な人に出会った、病気が癒された…。もちろん、どれもこれも嬉しいことですし、それはすなおに喜ぶべきことです。しかし、パウロがわたしたちに求めている喜びは、根源的に主イエス・キリストと結びついた喜びなのです。「主において」喜ぶとは、根源的に主こそが喜びの対象であり、喜びの場であり、喜びの原因なのです。わたしたちの喜びがそう出ないとすれば、それは起っては消え、起っては消えてしまう一過性の喜びに終わってしまいます。

 パウロは、この主にある喜びの勧めに続いて、すべての人と寛容に過ごすようにと命じています。
 「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」
 この寛容の勧めは先ほどの喜びの勧めと無関係な勧めなのではありません。狭い心で他人を否定的に退けるとすれば、そのこと自体が喜びの気持ちをわたしたちの心のうちから奪い取っていくからです。誰かに腹を立て、その人を裁くことにエネルギーを使った分だけ、わたしたちの喜びの力が失われてしまいます。

 またパウロが勧める喜びは他人を否定して、自己満足する喜びなのでもありません。誰かを罪に定めることは、その人よりも自分が優れているような錯覚に陥ります。そんな優越感から来る喜びであってはなりません。むしろ、主がわたしたちを赦し受け入れてくださったように、他者を受け入れることからくる喜びなのです。自分が寛容であることを通して、主がわたしたちに対して寛容であったことをいっそう深く思い起こし、喜ぶことができるのです。
 もちろん、寛容であるためには、忍耐強さが求められます。そして、この忍耐強さにも人間としての限度があります。忍耐深く寛容な気持ちでいたとしても、ずっと忍耐できるかというと必ずしもそうではありません。パウロは人間の弱さを知っています。ですから、パウロはすかさず「主はすぐ近くにおられます」と注意を促しています。
 「主はすぐ近くにいる」とは、場所的な近さのことを言っているのではないでしょう。むしろ、世の終わりの時に再び来てくださる主イエスが、今、正に来ようとしている、その時間的な近さのことをパウロは言っているのでしょう。もちろん、その場合の時間的な近さとは、あと何時間というような時計の問題ではありません。そうではなく、いつ来ても不思議ではない、時の緊迫感をパウロは言いたいのです。このように主の来臨が間近であることを思うときに、わたしたちの寛容さも忍耐も持ちこたえることができるのです。

 パウロはさらに勧めの言葉を続け、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と命じます。
 この勧めの言葉も、「常に喜びなさい」という勧めと無関係ではありません。どんな些細なことでも思い煩ったりしたのでは、喜びを維持することは出来ません。では、思い煩いから解放されるためには何をなすべきなのでしょうか。パウロは「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と命じます。

 感謝とは、神の存在と神の御業を抜きにしては考えることが出来ません。感謝するとは神がいますことと、その神がわたしに対してなしてくださった恵みと慈しみとを味わうことです。
 わたしたちが心に願うことは、それが思ったとおりに実現するのかどうか誰も確実に予想することは出来ません。そうであれば、人は思い煩うのでしょう。しかし、神がいますことととその神がなしてくださったことを深く味わう時、あらゆる人知を超える神の平和が、わたしたちの心と考えとをキリスト・イエスによって守ってくれるのです。この思いに満たされる時、常に喜ぶことができるのです。

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