メッセージ: 天に国籍を持つ者の歩み(フィリピ3:17-4:1)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
わたしが子供の頃、「即席」という言葉がありました。今はあまり使われなくなりましたが、その代表は「即席ラーメン」でした。「即席」に変わって、今では「インスタント」という言葉の方がよく使われるようになりました。日本語が英語になっただけで、本質は変わっていません。何でも簡単にすぐできるものがもてはやされる時代は、今も昔も同じです。忙しい時代になればなるほど、時間が節約できるものは重宝がられます。確かに、事と次第によっては、インスタントなものの方が優れていることは否定できません。
では、即席クリスチャンとかインスタント・クリスチャンなどがもてはやされるかと言えば、ちょっと考えただけでもぞっとしてしまいます。しかし、言葉にしてみるとおかしいとすぐ気がつくことでも、案外、インスタントな信仰の成長を求めてしまいがちなのがわたしたちの弱さです。
フィリピの信徒への手紙が問題にしている福音の敵対者たちは、ある意味で言えば、インスタントに手に入れた救いの完全さを主張する者たちです。それに対して、パウロがクリスチャンの歩みをどのように理解しているのか、きょうの個所からご一緒に学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書フィリピの信徒への手紙 3章17節から4章1節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」
きょう取り上げた個所も、フィリピの信徒への手紙3章全体の文脈の中で味わなければなりません。そこでは福音に敵対する者たちに対する注意が喚起され、パウロ自身のクリスチャンとして生きる姿勢が記されています。先ほどお読みした個所に出てくるパウロの勧めの言葉も、この敵対者との関連で理解を深めていく必要があります。
パウロはフィリピの教会員たちに「皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と勧めています。パウロは色々な機会に自分に倣うようにと教会員たちに勧めていますが、けっして完成された見本としてパウロを模範に歩むようにと言っているわけではありません。むしろ、この勧めの言葉は、直前のところでパウロがクリスチャンとしての自分の歩みについて触れていることと深く関係しています。
前回学んだとおり、パウロは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」クリスチャンでした。既に完全な者となっているわけではなく、何とかして捕らえようと努めている、そういう歩みのクリスチャンです。
パウロが「自分に倣いなさい」といっているのは、パウロのそういう姿のことなのです。敵対者たちとは違って、パウロは決して自分を完全なものだとは思っていません。むしろ、ゴールを得ようと懸命に走るマラソン選手のようです。
では、パウロが「あの犬ども」と呼んで、警戒するようにと勧めた「福音の敵対者たち」はどうなのでしょうか。パウロによれば、彼らは「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」と呼ばれます。彼らの主張は耳に心地よく、魅力的な教えだったのかもしれません。しかし、どんなに素晴らしく見えたとしても、それは結局のところ滅びに行きつく間違った教えなのです。その彼らの生き方に倣えば、自分もキリストの十字架に敵対して歩む者となってしまうのです。
パウロは涙ながらに「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」と語っています。この間違った教えの影響をフィリピの教会員たちがどれほど受けてしまったのか、はっきりはわかりません。しかし、キリストの十字架に敵対して歩む者の数が少ないとは、決して侮れないくらいの数の者たちがフィリピの教会の回りを囲んでいるのです。
パウロは彼らの本質を、結局のところ「この世のことしか考えていない」…そういうこの世の者たちだと評します。「自分たちはすでに完全にされている」、「自分たちは天に属する者だ」…そう思い込んでいる彼らが、実は地上にしか思いのない人たちだと言うのです。彼らは壮大な天の救いの計画を彼らは少しも知ってはいないのです。
そのような者たちに対して、パウロはクリスチャンの本質が天に属するものであるとを述べます。
「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」
福音の敵対者から見れば、パウロを初めとするクリスチャンこそまだこの地上のことから抜け出せない者たちなのかもしれません。しかし、クリスチャンはこの世でどんなに小さな者であったとしても、与えられた天の国籍によって身分が保証されているのです。
パウロが賞を目指して走っているそのレースは、実は挫折し、脱落するかもしれないレースなのではありません。天に国籍のある者が自分のふるさとに帰るレースであり、旅なのです。天に属する者にふさわしく、キリストの栄光の姿と同じ姿に変えられる保証と希望が与えられているのです。
このレースの道のりは長く、また、辛く感じられるかもしれません。もっと手早い方法で栄冠を手に入れたいとそう思うかもしれません。しかし、救いの完成のための抜け道を探すよりも確実なのは、キリストを信じる者には既に天の国籍が与えられているという事実なのです。国籍があるということは、ただの概念なのではありません。この身分にはあらゆる特権が付随しているのです。今は外国に寄留している状態なのかもしれません。しかし、やがては本国に戻ることができるのです。この希望をしっかりと持って生きること、そのことが地上に生きるクリスチャンには求められているのです。
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