メッセージ: テモテの派遣(フィリピ2:19-24)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
パウロの手紙の中には色々な人物の名前が登場します。たったの一回しか名前の登場しない人物もいれば、たびたび登場する有名な人物もいます。初代教会を陰となり日向となって支えたそれらの人物すべてについて、もっと詳しく知りたいと思うのはわたしばかりではないだろうと思います。そういう人たちのことを通して、活き活きとした初代教会の姿に触れることがきっとできるのではないかと思うからです。
そんな中で、きょうはテモテについて、パウロとテモテとフィリピの教会の関係の中で見てみたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書フィリピの信徒への手紙 2章19節から24節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。」
きょうお読みした個所では、パウロは自分に先立ってテモテをフィリピの教会に派遣するということが記されています。すでに一章の学びからも明らかなように、獄中にあるパウロは、自分の処遇がどのようになるのか、はっきりした予想がつかない状態でした。ただ、パウロの希望としては、獄中で死を迎え、キリストのもとへ行くよりも、なおこの地上に留まって、フィリピの教会を再び訪問して励ます希望を抱いていたようです(1:24,27)。もちろん、獄中にある今はそれをすぐに実現する見通しがあるわけではありません。いつ釈放されるのか、その兆しをなんとはなく感じることはあっても、いつと断言することは出来ません。このまま獄中で命を落とすという可能性もゼロではありませんでした。
そんな中、パウロは自分の足でフィリピの地を再び訪問するに先立って、テモテを派遣して、フィリピの教会の様子を知ろうと企てます。ただし、それさえも、簡単に実現できる保証があったわけではありません。それで、パウロは「主イエスによって希望しています」と控えめにテモテ派遣の計画を述べるに留まっています。
さて、派遣するテモテについては、すでにこの手紙の差出人として、パウロとともに名を連ねています。実際にはこの手紙を書いたのはパウロ一人と考えられますが、おそらくテモテをフィリピへ派遣する計画があったので、彼の名前を手紙の差出人に加えたのでしょう。
使徒言行録16章によれば、パウロは第2回の伝道旅行の際に、テモテを伴って出かけたとあります。この2回目の伝道旅行こそ、フィリピの教会が誕生するきっかけとなった旅行でした。そういう意味で、テモテとフィリピの教会は初めから深いかかわりがあったということが出来ます。テモテはフィリピの教会の人たちにはよく知られていた人物です。
そのテモテを、パウロはこんなふうに紹介しています。
「わたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者」「息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。」
パウロにとって、テモテは子供のような存在であり、この上ない同労者であったことが伺われます。そうであるからこそ、パウロはテモテを選んで派遣しようとしているのです。
テモテを選んだ理由を積極的に述べたあとに、パウロは21節でテモテと比べて他の人はどうなのかということを記しています。
「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。」
「他の人」というのが具体的に誰をさしているのかは分かりません。おそらくここでは具体的に誰かをテモテと比較してそう言っているのではないでしょう。親身になってフィリピの教会のことを心にかけているということを、別な角度から表現しているとも取ることが出来ます。つまり、他の人ならば、自分のことを最優先させるのに、テモテはそうではなく、キリストのことを最優先させる人であるということです。
ここで明らかなことは、パウロの気持ちの中では、教会のことを心にかけるということと、キリストのことを追い求めるということが、同じ方向を向いていると言うことです。というよりも、むしろ、テモテこそ、自分を差し置いてキリストを追い求め、そういう心の向かう延長線上に教会への配慮を置いているということなのです。キリストを離れて教会を心に留めるのでもなく、教会を離れてキリストにだけ心を向かわせるのでもないのです。キリストを追い求めることと教会のことを思う気持ちが一つの線の上に綺麗に並んでいるのです。テモテがそういう人物であるからこそパウロはテモテを是非派遣したいと願っているのです。
ところで、パウロはこのテモテの派遣を、19節で「主にあって希望している」と述べましたが、23節でも「希望している」と繰り返します。確かに、パウロは自由の身ではありませんでした。牢獄に監禁されている自分の身がどうなるか定かではない現時点では、「希望する」としか言いようがなかったのでしょう。しかし、そのことがはっきりするのは19節では「間もなく」のことであり、23節では「わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ」のことであるとパウロは予感しています。しかも、パウロは、自分自身についての決定が、決して悲観的なものではないと確信しています。
「わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。」
この確信をパウロは主によって与えられたものと述べています。どんな状況にあっても、パウロは前向きに主を信じ、自分に与えられた使命を最後まで果たそうと努めているのです。