メッセージ: フィリピの教会を思うと(フィリピ1:3-6)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
どんな教会にもその教会が生まれてくる歴史があります。そしてその教会が誕生してから今日にいたるまでの歴史を振り返ると、神の恵みを数多く数え上げることができると思います。きょう取り上げる聖書の個所を読むと、パウロがフィリピの教会のことで、どれほど神に感謝をしてるかということがとてもよく伝わってきます。特にこの教会の生い立ちについて学べば学ぶほど、パウロの思いがいっそう明らかになります。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。フィリピの信徒への手紙 1章3節から6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」
パウロの手紙はどの手紙でもそうですが、大抵は差出人と宛先人を書いた後で、感謝の言葉が続きます。そういう意味ではきょうの個所は手紙の形式にのっとった部分と言うことができると思います。しかし、その内容を読むと、これは決して形式的な型どおりの言葉が並べられているわけではないということが分かります。この個所にはフィリピの教会に対するパウロの熱い思いが述べられているといっても言い過ぎではありません。
お読みした3節から6節までは一気に1つの文で綴られています。その中心は言うまでもなく、「わたしはわたしの神に感謝している」ということです。それも、一度や二度の感謝ではなく、祈りのたびごとにフィリピの教会のことを思い出しては、喜びが感謝となってあふれ出ているのです。もちろん、パウロがフィリピの教会のことを思い出すのは、ふとした瞬間ではなく、この教会に集う一人一人について祈る時にです。フィリピの教会を思う祈りが神への感謝へとパウロを導いていることが分かります。
では、その感謝の理由は何なのでしょうか。それはフィリピの教会に集う人々が、最初の日から今日まで福音に与っているという事実です。最初の日からというのは、フィリピにパウロが宣教したその日からということです。もちろん、パウロが手紙を書いている教会は、どんな教会でも最初の日から今日まで福音に繋がっているからこそ、手紙を書いているわけです。そういう意味では、パウロはどの教会に対しても「最初の日から今日まで、福音にあずかっている」ことを感謝しているに違いありません。しかし、ことフィリピの教会に関しては、感謝すべき特別の理由がありました。それは、この教会がどのようにして生まれ、また、どのように今日までいたっているのかということにかかっています。
フィリピの教会がどのようにして生まれるようになったのかは、使徒言行録の16章11節から40節に詳しく述べられています。それはいわゆるパウロの2回目の伝道旅行の際に生まれた教会でした。
そもそもこの2回目の伝道旅行は、出だしからしてつまずいていました。パウロとバルナバとの間で、誰を一緒に連れて行くかで意見が対立してしまい、結局2人とも別々に旅立つことになってしまったからです。
こうして始まった伝道旅行は最初から困難続きでした。あちこちで御言葉を語ることが出来ず…もちろん、今となってはそれが神の特別な導きであったことが分かるのですが、そのときのパウロたちには予想外のハプニング続きでした。
しかし、この人間の目から見れば行く手を阻まれた旅行は、実は神によって備えられた新しい伝道の地へとパウロたちを導くためのものだったのです。使徒言行録によれば、このとき、初めて小アジア地方から海を越えて、ヨーロッパへと福音が伝わりました。そのヨーロッパ最初の伝道地が、今学んでいるマケドニア州第1の都市フィリピの教会だったのです。すぐにもリディアという名の紫布を扱う婦人とその家族が洗礼を受けてフィリピ教会第1号のクリスチャンになりました。出だしはよかったのですが、ある事件がきっかけとなってパウロ一行は投獄されてしまいます。翌朝には釈放されますが、その間にパウロたちを見張っていた牢獄の看守がクリスチャンになります。困難の中にも希望のあるスタートのように見えますが、しかし、パウロがフィリピンの土地に踏みとどまれるのはそこまでとなってしまいます。牢から釈放されると共に、町からも追放されてしまったからです。
福音を宣教し、教会を育てたいと思うパウロにとっては、あまりにも短い期間しかそこに留まることが許されなかったのです。後ろ髪をひかれるような思いでフィリピの土地を去ったパウロにとって、残された教会の信徒一人一人のことはどれほど気がかりなことだったでしょうか。できることならば、教会の基礎がしっかりと固まり、一人一人の信徒がしっかりと育ちあがるまで、そこに留まりたかったに違いありません。
そういう背景を思いながら、この手紙の冒頭の感謝を読むと、パウロの感謝の思いがどれほどであるのか、理解すことができるでしょう。
けれども、パウロはここでフィリピの教会員がどれほど立派であるかと言うことを神に感謝しているのではありません。パウロの思いは、すぐさま6節で神へと向かっています。
パウロが見つめているのは、よい業をはじめられた方、つまり、父なる神を見ているのです。フィリピの教会が始まったのも、また、フィリピの教会員が今に至るまでみな福音にあずかっているのも、そして、これからも終わりの日まで完成へ導いてくださるのも神様ご自身なのです。この確信があるからこそ、パウロの神に対する感謝はいっそう大きなものがあるのです。
パウロの教会を見るこの大きなスケールをわたしたちも見習いたいと思います。一人の人が同じ教会に関われる期間と言うのは、どんなにがんばってもその人の一生涯をこえることは出来ません。しかし教会の歴史というのは、自分の生涯をはるかに越えたものです。その教会の歴史が神のみ手のうちにあり、完成へと導かれていると確信することができれば、どれほど感謝と平安な思いをもって一つの教会と関わることができるでしょうか。そこには傲慢な思い上がりは消え去り、完成へと導いてくださる神への信頼と感謝だけがわたしたちを支配します。たとえ自分がそこでのかかわりが少しであったとしても、完成してくださるお方がいらっしゃる事を知る時に、もっと自由にもっと大胆になれるのではないでしょか。
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