おはようございます。山下正雄です。
今週で今年も終わりです。「良いお年を」という挨拶の言葉があちらでもこちらでも聞かれます。この一年間、いろいろな辛い思いをした方たちには、是非とも新しい年が幸の多い年となりますようにと心からお祈りします。
ところで、イエス・キリストの言葉の中に、とても不思議な言葉があります。それはルカ福音書6章20節以下に記された言葉です。イエス・キリストはおっしゃいます。
「貧しい人々は幸いである」「今飢えている人々は幸いである」「今泣いている人々は幸いである」
この言葉には一瞬耳を疑いたくなるかもしれません。貧困から解放されて豊かになることは、今でも人々が願っている幸せです。食べるものがなく、飢餓に苦しんでいる人を見て、誰も幸せだと思うはずがありません。悲しんで涙を流している人には慰めが必要です。どこからどう見ても、貧しさの幸い、飢えていることの幸い、泣いていることの幸いを理解するのは難しく思えます。
しかし、逆にイエス・キリストはこうもおっしゃいました。
「富んでいるあなたがたは、不幸である」「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である」「今笑っている人々は、不幸である」
確かに富に安住して、あたかも豊かな富が魂の寿命までも延ばしたかのように錯覚しているのだとすれば、それは愚かな幸せです。自分だけはお腹いっぱい食べて、空腹の中に生きている人のことをすっかり忘れてしまうなら、それは隣人愛に欠ける暮らしです。この世にある悲しみを少しも知らないで、世の中がみな幸せであるかのように思い込むことは、ただの世間知らずの無知に過ぎません。そう考えると、富んでいることの不幸、満腹していることの不幸、笑っていることの不幸という言い方は、それほど違和感のあるものと感じられません。
では、貧しいことがどうして幸いなのか、と言うことを改めて考えてみると、もちろん、極貧であることが幸いであるという意味ではないでしょう。そうではなく、その幸せの理由は「神の国があなた方のものだから」という理由なのです。確かに富に安住していれば、自分の命さえも神の手から買い取って自分のものにしたような錯覚に陥ってしまうものです。そう思い込んでいる人が、果たして神の存在や神の支配を受け入れるかどうか疑問です。それに対して、神を常に自分の目の前に置き、神の存在の大きさを意識する点で、貧しい人々はより神の国に近いといえるのです。実際、旧約聖書の中に出てくる「貧しい人」という言葉は経済的な側面の乏しさよりも、むしろ、神だけが頼りである心のあり方を表す言葉となっています。
同じように飢えや悲しみが、満たして下さる神を知る機会となり、慰め笑いを与えてくださる神と出会う機会となるのであれば、これは本当に幸いなことです。
神は人に対して、神を愛し、隣人を愛することを求めています。そしてそのことこそが人を本当に幸せに導くものです。しかし不思議なことに、人は富んで満腹し笑っている時には神を忘れ、隣人への配慮を忘れがちなものです。貧しさの幸い、飢えていることの幸い、泣くことの幸い…それらの幸いを覚えることが出来る年となりますように、こころからお祈りいたします。