おはようございます。山下正雄です。今週の土曜日はいよいよクリスマスです。クリスマスは救い主イエス・キリストのお誕生をお祝いする日です。このクリスマスの出来事について、古代教会の讃美歌の1節を引用したのではないかといわれている言葉に、こんな言葉があります。フィリピの信徒への手紙2章6節以下の言葉です。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
ここにはイエス・キリストの徹底的なへりくだりの姿が描かれています。キリストは神と等しい者でありながら、その身分を捨ててこの世にきてくださいました。その姿は人間と変わることなく、寒さや暑さを感じ、疲労を覚え、時には空腹になり、時には眠気を感じ、悲しみも痛みも人間と同じように感じられました。しかも、普通の人では味わあないような十字架の苦しみを耐え忍ばれたのです。
一体何のためだったのでしょう。旧約聖書の預言者イザヤはこう書いています。
「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。」(53:5)
わたしたちの背きや咎を背負うためにこの世に生まれ、わたしたちが平和を与えられ、癒されるために徹底的にへりくだった道を歩まれたのです。
ところで、わたしの好きなクリスマスの讃美歌に「まぶねのかたえに われはたちて」と始まる歌があります。讃美歌の107番です。メロディーはヨハン・セバスチアン・バッハの作曲だと言われています。その讃美歌の4番はこう歌われます。
「この世のさかえを のぞみまさず、われらにかわりて なやみたもう。 とうときまずしさ 知りえしわがみは、いかにたたえまつらん」
もし、救い主である人がこの世の繁栄を追求し、他人に苦しみを押し付けてくる人だとしたら、それは救い主でも何でもありません。しかし、わたしたち人間はこの世の栄えを望み、それを幸福だと感じ、そのために互いに悩み苦しみを押し付けあっているのです。幸福どころか、まずます苦しみの泥沼から抜け出せずに苦しんでいるのです。
その苦しみのどん底まで、救い主イエス・キリストは来てくださいました。わたしたちの苦しみを担い、すべてを与え、死のほかに何も報いられないとしても、それでも、わたしたちの救いのために天から下ってきてくださったのです。
まぶねの中に生まれたキリスト、大工の息子として育ったキリスト、荒れ野の試練で空腹を覚えられたキリスト、十字架を背負って処刑場まで歩まれたキリスト…その姿は見るべき姿もないかもしれません。しかし、このキリストの貧しい姿の中にこそ、金にも銀にも変えることができない貴さがあるのです。わたしたちに代わってあらゆる悩みを嘗め尽くされたイエス・キリストこそ真の救い主なのです。クリスマスにはこのキリストの貴い貧しさを覚えましょう。