キリストへの時間 2004年12月12日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 「この人を見よ」

 おはようございます。山下正雄です。

 わたしの好きな讃美歌に「この人を見よ」という言葉が繰り返される歌があります。讃美歌の121番です。作詞をしたのは由木康という日本人の牧師です。

 「馬槽のなかにうぶごえあげ、木工の家にひととなりて、貧しきうれい、生くるなやみ、つぶさになめし この人を見よ」

 この讃美歌は1節から4節までの歌詞を通してイエス・キリストのご生涯とその意味を実に深く歌い上げています。「この人を見よ」と歌われている「この人」とはイエス・キリストにほかなりません。

 「この人」が生まれたのは、家畜の餌を入れる飼い葉桶の中でした。そのことを記しているのはルカによる福音書です。その誕生の次第を読めば明らかなとおり、イエスのご両親はいつも家畜小屋で暮らしていたと言うわけではありません。たまたま旅の途中のできごとで、やむを得ず生まれた赤ちゃんを飼い葉桶の中に寝かせたのです。

 けれども、それはただの偶然ではありませんでした。神によって備えられた象徴的な出来事だったのです。救い主が生まれた場所が王の宮廷ではなく、またその使っていたゆりかごが金や象牙のゆりかごでもないところに意味があるのです。

 後にヘブライ人への手紙の著者はイエス・キリストについてこう語っています。

 「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(4:15)

 生まれた時をはじめとして、生きる上での苦しみ、憂い、悩みをつぶさになめられたからこそ、わたしたちが持っている弱さを憐み、救いへと導いてくださることができるのです。わたしたちと同じように、いえ、わたしたち以上に低くされたからこそ、わたしたちの必要を誰よりもご存知でいらっしゃるのです。

 ところで、「この人を見よ」という言葉は、ヨハネ福音書の中に出てくる言葉です。ポンティオ・ピラトのもとでイエス・キリストが裁判を受けたとき、ピラトは民衆の前にイエスを引き出して「この人を見よ」と言いました(ヨハネ19:5)。連れ出されてきたのは、茨の冠をかぶされ、紫の衣を身に纏わされたキリストでした。それは王様の威厳などどこにも感じることが出来ないほど憔悴し、鞭打たれて傷ついたキリストの姿でした。誰が見ても大それた犯罪を犯すような人間には見えません。そういう思いもあって、ピラトはイエスに何の罪も見出せないことを民衆に分からせるために「この人を見よ」と民衆に促したのです。けれども、民衆はイエスを十字架にかけるようにと声高に要求します。

 クリスマスはイエス・キリストの誕生を覚える日です。その生まれてきた救い主は、十字架で処刑されてしまう救い主です。十字架で処刑された人を救い主と呼ぶのは、矛盾としか思えません。「この人」を深く見つめなければ、大切な真理を見落としてしまいます。イエス・キリストが来られたのは、仕えられるためではなく仕えるため、しかも、ご自分の命を捧げて救いの御業を成し遂げるためだったのです。

 もうすぐクリスマスの時を迎えようとしているわたしたちです。この生まれてくる救い主のご生涯にもう一度よく目を注ぎましょう。このお方のうちにこそ、わたしたちを救おうとされる神の愛が豊かに示されています。

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