おはようございます。山下正雄です。
この世の人生には、人間の知恵では説明ができない不可解なことがたくさん起ります。いえ、わたしが神様だったらこうはしないだろうと思うことが、この世の人生にはたくさん起ります。もっとも、そう思うのも、行き当たりばったりの出来事に遭遇して、行き当たりばったりにそう思うだけのことです。もし、神からこの世のすべての運営を任されたとして、果たしてわたしが世界中の人々を幸せにし、すべての人が納得の行く暮らしを設計できるだけの知恵があるかといえば、大いに疑問です。しかし、そうだとわかってはいても、日々起る不可解な出来事に困惑させられてしまいそうです。
さて、旧約聖書の創世記の中に、ヨセフという人物の話が出てきます。イスラエル民族のもととなるヤコブに生まれた12人の息子たちの一人です。このヨセフは兄たちの悪巧みによって、エジプトに売り飛ばされてしまうことになります。もちろん、なぜそんな憂き目に遭わなければならないのかをたどっていけば、一方的に兄たちばかりを責めることは出来ないかもしれません。複雑な家族関係の中で兄たちの心も十分傷ついていました。
それはさておくとして、エジプトに売られていったヨセフに待ち受けていたものは、思ったよりも幸せな生活でした。ヨセフを買い取ったのは、エジプトの王ファラオの宮廷に仕える侍従長ポティファルだったからです。
このポティファルの家でヨセフは主人の信頼を勝ち取り、何もかも任されるようになっていたのです。聖書によれば、それは主である神がヨセフと共にいたからだと記されています。
ところが、ことあろうに、ポティファルの妻がヨセフを自分のものにしようと誘惑を始めます。主が共にいてくださるなら、なぜこんな危険な目にヨセフをあわせられるのか、誰にも答えることは出来ません。ただ、主である神が共にいてくださったので、ポティファルの妻からの誘惑をヨセフは撥ね退けることができました。しかし、これで万事がうまく収まったのではありませんでした。ポティファルの妻からのしつこい誘惑は、とうとうヨセフに濡れ衣を着せる事件へと発展します。
ヨセフはしつこい誘惑を振り切って、掴まれた着物を脱ぎ捨てて外へと飛び出してしまいます。部屋に残した着物を良いことに、ポティファルの妻は自分を誘惑する不届き者としてヨセフを訴え出たのです。とうとう、ヨセフは監獄に入れられてしまいます。
せっかく主人であるポティファルの信頼を勝ち取ったというのに、どうして主人の信頼を損なうような濡れ衣を着せられなければならないのでしょうか。その質問にはそのときの誰にも答えることは出来ません。
けれども、このとき監獄に閉じ込められることによって、次のドラマがすでに始まっていたのです。やがてヨセフはエジプトの王ファラオの夢を解き明かすために、監獄から召し出されることになります。そのきっかけを作ったのが、同じ監獄につながれていた囚人でした。
この結末を最初から知っていれば、ヨセフの身に起こったことも安心して読むことができるでしょう。しかし、わたしたちの人生はいつも先の先までは見通すことが出来ません。見えているのは、この瞬間瞬間のことばかりです。
この瞬間瞬間の先を見通して、平安な思いになるのには、神の導きを堅く信じるより他ありません。万事を益としてくださる神をどの瞬間にも信じる時、たとえ誤解や濡れ衣の中にあっても心が揺らぐことはありません。この平安な思いがあなたにも与えられることを願ってやみません。