おはようございます。山下正雄です。
牧師という仕事をしていると、いろいろな人に出会います。中には「これでもか、これでもか」と言うほど辛い経験を立て続けにされている方もいます。「数奇な運命」と言う言葉は、この人のためにあるのではないかと思いたくなるような方にも出会います。もっとも、キリスト教では「運命」ということを信じません。どんな人生も「運命のいたずら」などといって片付けてしまうことなどありません。
では、キリスト教では何を信じて人生の荒波を乗り越えていくのでしょうか。キリスト教では神の摂理、神の力強い知恵ある導きを信じています。しかし、苦しみや悲しみの渦の中にいる時には、そこに神の働きを見ることは困難です。今までの人生を振り返って、初めて神が側近くにいて導いていてくださったことに気が付くこともあります。
さて、旧約聖書創世記の中に、ヨセフという人物が登場します。ヤコブに生まれた12人の息子のうちの一人です。この人の生涯ほど数奇なものはありませんでした。特にこの人の人生の一部分だけを切り取ってみるとすれば、踏んだり蹴ったりのことが続きます。その時点では、誰も将来を予測できませんから、ほんとうに気の毒な人生としかわたしたちの目には映りません。
17歳のヨセフは父のヤコブに溺愛されていました。兄弟の誰よりも可愛がられ、着る物も特別なものが与えられました。また、ヨセフも自分を特別に扱ってくれる父親に、兄たちのことをいろいろと告げ口しました。当然、兄たちは穏やかな心でいることは出来ません。もっとも、それだけのことならば、今でもどこかの家族にありそうなことです。
しかし、兄たちとヨセフとを対立させる決定的なことが起りました。
ヨセフは、兄たちが不愉快になるような不思議な夢を立て続けに二度見たのです。どちらの夢も、兄たちが自分にひれ伏すようになる夢です。ヨセフもそれを黙っていればいいものを、よりによってその夢を語らずにはおれなかったのです。兄たちの憎しみは頂点に達し、とうとうヨセフを殺そうと穴に投げ入れてしまいました。
兄たちは言います。
「あれの夢がどうなるか、見てやろう」
兄たちは力ずくでヨセフの見た夢が実現することを妨げようとしているのです。
この時点では、誰もヨセフの将来がどうなるか言い当てることは出来ません。少なくとも兄たちには、ヨセフの夢は正夢になるはずもないと思われました。しかし、誰もが予想もしなかった経緯をたどって、遠い将来にこの夢は実現したのです。
さて、神は何故、ヨセフにこのような不思議な夢を見させたのでしょうか。それは神こそが人間の思いをはるかに超えて人を導く力のあるお方であることを示すためでした。
しかし、神は何故、同じようにわたしたちに夢を見させて、様々な困難に耐え忍ぶ勇気と希望を与えてくださらないのでしょうか。
いえ、そうではありません。神は聖書を通してイエス・キリストを信じる者が将来どうなるかをはっきりと示していらっしゃいます。それは一人一人にとっては思いがけない経路を通って実現されるものです。神は信じる者たちをゴールへと向かって確実に導いていらっしゃるのです。その神の導きを信じて歩むとき、この与えられた人生が「数奇な運命」なのではなく、豊かな人生と受けとめることができるようになるのです。