私たちにとって「光」はとても大切なものです。暗い夜にも、私達の周りを明るく照らし、どこに何があるのか、はっきりと映し出してくれます。それだけではありません。外出から帰ってきて、家に灯りがついていると、何か私達の心を和ませ、ホッとさせてくれる温かいものを感じます。私が子供の頃、街灯もない、まさに一歩先も見えない真っ暗がりの夜道を歩いていた時、足元を踏み外して田んぼの脇の農業用水に落ちたことがあります。幸い大怪我はしませんでしたが、暗がりの夜道は大変危険です。
しかし、今は、どこの街角でも街灯がついていて、特に繁華街ともなれば、夜であることを忘れさせるほど、あちらこちらの店舗やビルのネオンサインの照明がついて、目も眩むばかりに輝いています。このような灯りの下では、足を踏み外すことも、道に迷うこともないでしょう。
ですが、私達を取り巻く環境は日々変化しています。どれ一つとして確かなものはなく、何時、何処で何が起こるかわかりません。職場にはリストラの嵐、次々と現れる新しい病気、思いがけない大事故、新聞やニュースには不安の材料がいっぱいです。人々の価値観も変わっていきます。それぞれがいろいろなストレスを抱えた中で、人間関係も複雑になりがちです。私達は、いわば一寸先は闇といった不確実な時代に生きているのです。将来に対する様々な不安を抱えつつ毎日を過ごしているうちに、心までが暗闇となって心身共に疲れてしまった、という方もおられるのではないでしょうか。
私達は、誰しもが暗闇よりも光に照らしだされた有意義かつ充実した人生をすごしたいと願っています。自分がどこに立っているのか、どこに向かっているのか照らしてくれる確かな光が必要なのです。
では、その光、私達の心の暗闇を明るく照らしだしてくれる光とは何でしょうか。
主イエス・キリストは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と言われました。イエス・キリストは、神のもとから遣わされ、私達人間の間に住まわれて、私達を罪の悲惨と死の底知れぬ闇から救い出して下さる唯一の光です。神を見失い、罪の闇の中にあって、自分がどこにいるかもわからない人間の足元を、イエス・キリストの光から照らし出し、真の神のもとへ、命へと導いて下さるのです。イエス・キリストを信じて、イエスに従うならば、私達は決して暗闇の人生ではなく、光の中を歩くことができるのです。イエスの光に照らされて歩む人生は確かな人生です。自分が今おかれているところも、環境も、神によって与えられた場所だと確信することができます。道に迷った時も、イエスの御言葉である聖書に聞くことができます。そして、道の途中に何があるか、すべでは見えていなくても、目指すべき永遠の命は輝きを失うことがありません。
ラジオをお聞きの皆様の中で、まだ主イエスの光のもとに来ておられない方、どうか今この時から、イエス・キリストの御言葉の光に照らされて歩む人生を始めていだたきたいと思います。