皆様は、休日をどのように過ごしておられるでしょうか。マイカーのハンドルを握って郊外へドライブされる方もおられるのではないでしょうか。目的地がはっきりしていれば、あとは、どのルート、道を通っていくかです。私も高知県に来て、四国山地の連峰の中でも屈指の絶景が見られると聞いて、四国カルストに向けて車を走らせたことがありました。道路地図を傍らに おいて、地図に従って初めての国道を走りました。最初は、よく舗装され、道幅も充分の道で、ハンドルを握る手も軽やかでした。しかし、嶺の裾野まで来ると、これまでとは一変して、道幅は車一台がやっと通れる程の狭さとなり、ガードレールさえも満足についていないのです。
もし、この道が不案内の人、初めての人であれば、当然のように、道に迷ってしまったのではないか、果して目的地に無事に行き着くのだろうか、と不安に思うところです。しかし、道路地図が正確であるならば、たとえ途中、どのような道路事情であっても、必ず目的地に到着するはずです。
これは私達が神を知ろう、真理に行き着こうと願う場合も同じことです。迷わずに神に至るための道があるはずですし、道しるべがあるはずです。私達人間は、昔から神を知ろうとして色々な方法を試みてきました。人間の理性によって神を知ろうとしました。また、ある人は、宇宙の秩序から神の存在を類推しようとしました。また、ある人は人生の因果関係から神にまでたどりつこうとしました。
しかし、このような方法によっては、神に行き着くことはできません。有限なる人間の理性、能力によって無限かつ知恵に満ちた神を知ることはできないのです。
人間から神に至る道はありませんが、神が人間に示して下さった道はあります。私たちは、その道を通って神を知ることができるのです。その道とは、人となられて、この世に下られ、神とはいかなる御方であるかを私達に示して下さった神の御子イエス・キリストです。私達は、イエス・キリストのご人格と生涯を通して神についての真理を得ることができるのです。イエス・キリストの内には満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っているのです。
イエス・キリストは、ご自分のことを「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」さらに「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と言われました。イエス・キリストを知ること、見ることと、父なる神を知ること、見ることとは同じなのです。私達がもし、神を知りたければイエス・キリストを見ることです。神の言を聞きたければ、イエス・キリストの言に耳を傾けることです。そこに働く神の力が見えてくるはずです。
多くの方は、今、この目で神を見ることが出来れば神を信じると言います。しかし、神は、もうすでにご自分の御子をこの世に、私達のもとに人間として生まれさせられました。そして、今は、聖書においてイエス・キリストは、ご自分のことを証され、語っておられます。神を求めておられるあなた、どうか今すぐに聖書を繙いてイエス・キリストの言に耳を傾けて下さい。きっと神がどのような御方なのかが、はっきりとおわかり頂けるでしょう。