おはようございます。山下正雄です。
「人間とは何者か」…これは古今東西、多くの人が問うてきた問題です。同じように「神とはいかなるお方であるのか」ということも、古今東西色々な形で問われて来ました。人間が人間について答えを見出すことさえ難しいのですから、まして、神について、神がいかなるお方であるのかは、人間の知恵ではとうてい計り知ることも出来ないものです。どうしても既存の概念から出発して、それを拡大していく仕方で神を描こうとしてしまいます。例えば、もっとも賢いお方、もっとも聖なるお方、もっとも正しいお方、時間や空間と言うものにまったく縛られないお方。これらはどれをとっても神について当てはまるものであるかもしれません。しかし、それらの表現をどんなに積み重ねても、神とはいかなるお方であるのかを知ることは出来ません。
では、聖書には神がいかなるお方であるのかが余すところなく記されているのかと言うと、そういうわけでもありません。そもそも有限な存在である人間が、無限の存在である神を捉えきることなどできるはずもないからです。
しかし、聖書が教える神は抽象的な概念ではありません。実に神はご自分を人間にお示しになるときには、人間の歴史に具体的に深くおかかわりになってご自分をお示しになります。聖書に登場する人物は、このようにして現れた神と出会い、神とはいかなるお方であるのかを知るのです。
さて、旧約聖書創世記に登場するヤコブにとって、神はどのようなお方だったのでしょうか。このヤコブにとって神との自覚的な出会いは、故郷を離れる旅の途上、べテルと呼ばれる場所で起りました。そのときヤコブが耳にした神の約束はこうでした。
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
以来、20年間、ヤコブは伯父さんのものとで苦しい生活を送りますが、その度にこの神の約束を思い出し、そう約束してくださる神を実感したのです。
再び故郷に戻ったヤコブに神は命じられます。
「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい。」
この神の呼びかけに応えて、ヤコブは一族を連れ立って、かつて神が自分に語りかけてくださったその場所へと向かいます。このとき、ヤコブが一族の者たちに自分の信じる神をどう表現しているのか、その言葉に興味を覚えます。
「苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神」…ヤコブは、このように自分の信じる神を呼びます。
これは神がいかなるお方であるのか、その全体を示すものではありません。しかし、神はヤコブの人生を通して、そういうお方としてご自分をあらわしてこられたのです。神は抽象的な存在でも概念でもありません。苦しみに直面する時に、このわたしに答えて下さり、人生の旅路、どこにあってもわたしと共にいてくださるお方なのです。
ヤコブはそのような神と出会い、そのような神と共に歩んできました。聖書を読んで神を知るということは、そのような神に対する信仰を共にするということにほかなりません。
あなたも是非、苦難の時に答え、共にいてくださる聖書の神に出会ってください。