おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書創世記に登場するエサウとヤコブは双子の兄弟でした。この二人は双子でありながら、まったく違った個性をもって生まれ、まったく違った人生を歩みました。
この二人は若い頃の事件がきっかけで、20年間も別れ別れに暮らしてきました。弟のヤコブを恨んだ兄エサウが、弟殺しを思い立ったからです。その日以来、ヤコブは両親のもとを離れ、母方の伯父さんのもとで苦労に苦労を重ねてきたのです。
20年の歳月が流れ、ヤコブは再び故郷へと戻る決意をしました。果たして兄に再会したときに、お互いにわだかまることなく、赦しあい、受け入れあうことができるのでしょうか。ヤコブには一抹の不安がありました。
目を上げてみると、先に遣わした使いの者が報告したとおり、エサウは400人もの人を連れ立って、こちらに向かってきます。和解のためなのか、それとも戦いのためなのかヤコブは不安になります。万が一の時に備えてヤコブはこちらの隊列を組みなおします。最愛の妻ラケルとその子ヨセフを列の一番最後に置き、自分は先頭にたって進みます。もちろん、兄と戦うためではありません。ただ兄に赦しを請うためです。兄のもとにつくまでに、7回も地面にひれ伏して兄エサウの機嫌を伺います。両者の距離はだんだんと縮まってきます。創世記に記されたこの物語を読む者にも、ヤコブと同じような緊張が走ります。
やがて兄エサウが走り出し、ヤコブのほうへ向かってきます。ヤコブの緊張もいよいよ高まります。
が、次の瞬間、ヤコブが肌に感じたものは、自分を抱きしめる兄のぬくもりでした。二人の頬には自然と涙が伝い落ちます。なんと麗しい兄弟の再会でしょうか。
しかし、創世記に記された二人の再会場面は、すべてが「めでたしめでたし」のようにも見えますが、まだ、二人の間にはよそよそしさも感じられます。もっとも20年ぶりの再開なのですから、いきなり20年前の若かった頃のように、何の屈託もなく打ち解けあうには少しは時間がかかるのも無理ありません。まして、殺されるかもしれない恐怖の中で家を飛び出したヤコブにとっては、兄エサウをどこまで信じていいのか、疑心暗鬼になるところもあったことでしょう。
ところで、創世記がこの兄弟の再会の話を載せているのには、どういう意図があったのでしょうか。創世記は事の成り行きを淡々と語るだけで、この物語の意義も教訓も語ることはありません。
弟ヤコブの周到深い準備と謙遜な行動が兄の態度を和らげたのでしょうか。それとも、この20年の間にエサウの心が寛大になったのでしょうか。創世記は取り立ててヤコブの謙遜な態度にもエサウの寛大な態度にもコメントをしません。
しかし、ヤコブが故郷を離れ、再び故郷に戻るまでの20年間を記した創世記の記事を注意深く読むときに、ここで雄弁に語られているある事柄に気がつきます。
それは、故郷を離れてから今日にいたるまでヤコブと共にいてくださると約束してくださった神の約束に対する忠実さです。この兄弟再会の物語は、ヤコブの謙遜さでも、エサウの寛大さでも、まして、兄弟愛の麗しさでもないのです。神が約束に忠実だったのです。
ヤコブは兄弟との再会と和解を通して、約束に忠実な神を身近に感じたのです。神とはいかなるお方であるのかを自分自身の人生を通して体得したのです。だからこそ、この物語の締めくくりは、祭壇を築き神を礼拝するヤコブの姿で結ばれています。