おはようございます。清和女子高校の山脇です。今日は「聞くことによって始まる」という点について考えてみたいと思います。
小さな子供が「ねえー、ねえー聞いて」とよく話しかけてきますね。あれなあに、これは、それから?と質問ぜめにあうこともしばしばです。まず自分の話しをお父さんやお母さんにしっかり聞いてもらいたい。そして自分の方を向いてもらいたいと思って、大人が忙しくしている時に限って「ねえー、ねえー聞いて」を連発する場合がありますね。皆様にはこのような経験をされたことはありませんか。小さな子供は確かに、自分を認めてもらいたいのです。自分はここに居るのだという存在感を持ってもらいたい。片手間で話を聞いている場合は、その場所を離れることなく聞いて、聞いてを繰り返すものですが、そんな時に、きちんと子供と向かい合って、1分でも2分でも、心から子供の方を向いて聞いてあげたなら、もう子供は満足して、自分の心を満たされて、他の事がらに目を向けていきます。そこには、お父さん、お母さん、大人に自分を認めてもらえたという安心から心が満たされているのです。
しかし私達大人は、自分の悩みや自分の生き方などに迷った時に、この子供のように、聞いて、聞いてをどこに言っていけばよいのでしょうか。友達同志、同窓の方々、先輩など多くの人々との交わりの中で、自分の心を良き方向に導いてくれる人を探し求める時がありますね。しかし、全てを解決することなく、頭を抱えてしまう時がありませんか。ここで、わたしの全てを知り、全てを受け入れて下さる方がいらっしゃったらどんなにすばらしいでしょうか。聖書にはその答えが書かれています。そして、私達には全てを聞いて下さる方がいらっしゃるのです。それはイエス様は、「重荷を負っている者は、私の元に来なさい。休ませてあげよう」と聖書の中で私達に呼びかけて下さっています。しかし、私達の心は閉ざされたままで、イエス様の呼びかけには、振り向かないで、自分の思いで、行動を取り、自分の力で全てのことができると思いこんでしまうことが多いですね。それは、自分の力があり、自信がある人に多くみられ、多くの情報や、過去のデータや、力や、財産によって、その価値観を決めてしまうことが多いものです。神様を必要としなくて、人の力やお金で生きていこうとする人々を多く見かけます。しかし、そこには本当の救いはありません。
自分を救って下さる、永遠の生命を与えられる恵みを得るためには、まずキリストの教えを聞きなさい、心を開いて聞きなさい、おさな子のように全てをまかせて聞きなさい、と聖書には繰り返し書かれています。
今日お読みしましたローマの信徒への手紙10章17節をもう一度繰り返します。「実に、信仰は、聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と書かれています。
神様はあらゆる所で、あらゆる方法で、私に従って来なさい、という呼びかけをして下さっています。心をかたくなにし、目を閉じ、耳をふさいでしまわないで、心を開いて、キリストの言葉一つ一つを聞き、受け入れ、そして私の心の全てを聞いて下さる方にお会いしましょう。おさな子のように素直な心になって。
イエス様に向って、聞いて、聞いてと言える人生は何てすばらしいでしょう。