おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書詩編の133編は兄弟が共にいることの麗しさを歌っています。「見よ、兄弟が共に座っている。 なんという恵み、なんという喜び」
同じ旧約聖書箴言の18章19節はいさかいを起こした兄弟の姿をこう描いています。「一度背かれれば、兄弟は砦のように いさかいをすれば、城のかんぬきのようになる」
この対照的な兄弟の姿は、どちらも人間の営みの中に見ることができる姿です。
さて、双子の兄弟エサウとヤコブは仲違いをしてしまいます。もとはと言えばエサウに非があったのかもしれません。しかし、兄弟喧嘩の直接の原因は、弟のヤコブが兄のエサウから祝福を奪い取ってしまったことにありました。しかもそれは、巧みな計略によってでした。
エサウの怒りは頂点に達し、弟を殺そうと思う殺意にまで発展します。弟ヤコブはもはや家にいることができません。ヤコブは母方の伯父さんを頼って遠い場所に旅立ちました。
はるばる訪れた新しい場所での生活は、思ったよりも快適でした。伯父さんの家畜の世話をし、従姉妹たちと暮らす毎日は、故郷を離れた寂しさを少しは忘れさせてくれるものだったことでしょう。
1ヶ月がたち、伯父のラバンはヤコブに働きの報酬を約束します。ただ置いてもらえると言うだけでもありがたいことなのに、その上に報酬までもくれるというのです。ヤコブには願ってもないことでした。ヤコブにとってはどんな報酬よりも、従姉妹のラケルとの結婚を許していただくことが嬉しいと思えました。ヤコブは7年間ラケルのために働くことを約束します。結婚の許しをいただくためとはいえ、7年という期間は相当な長い期間です。それでも、ヤコブにとってはその7年間は数日のようであったと聖書は記しています。愛する者のために過ごす年月は瞬く間に過ぎ去っていってしまいました。
約束の7年が過ぎ、ヤコブは念願のラケルとの結婚を許されます。結婚の祝宴も盛大に開かれました。ヤコブにとっては、7年間の苦労もこの祝福の時に比べれば取るに足りない期間です。これからの結婚生活のことを思うと、ヤコブは幸せいっぱいだったことでしょう。
ところが、ヤコブは騙されたのです。ヤコブのもとにやってきたのは妹のラケルではなく、姉のレアでした。伯父さんのラバンによれば、姉よりも妹を先に嫁がせる習慣はこの土地にはないというのです。土地の習慣なら仕方ないかも知れません。伯父さんに悪意があったとは言えないかも知れません。しかし、それならそうと、最初から言って欲しかったことでしょう。
「なぜ、わたしをだましたのですか」…ヤコブは伯父さんに食ってかかります。
ヤコブにとっては、今まで人から騙された経験などなかったことでしょう。いえ、騙された経験はないとしても、騙した経験ならありました。そして、まさにそのことが原因で兄の怒りを買い、故郷を離れて暮らす身となったのでした。人から騙されて、初めて人を騙すことがどれほど人を傷つけるのか、ヤコブは身をもって経験したはずです。
結局ヤコブはラケルと結婚するためにさらに7年間働くことを余儀なくされてしまいます。この7年間を過ごすうちに、ヤコブは何度となく人を騙すことについて自分自身を反省する機会が与えられたに違いありません。身をもって学んで初めて知った人の痛みだったことでしょう。最初から人の痛みを知っていれば、こんな回り道をしなくてすんだかもしれません。しかし、回り道をして知ることもいっぱいあるのです。神の目には無駄な回り道はありません。わたしたちが成長する機会と考え、練り上げられた品性が形作られるのを期待しましょう。