おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書創世記には、アブラハムに与えられた神の祝福の約束が、どんな風に実現していくのか、その約束を担う家族の歴史が記されています、アブラハムに始まり、イサク、ヤコブへと祝福の約束は受け継がれていきます。これから取り上げようとしているのは、ヤコブの話です。
ヤコブは兄エサウの恨みをかって、家にいることができなくなりました、遠く離れた伯父さんの家に身を寄せることとなり、一人故郷を旅立つことになりました。旅立つ理由が理由だけに、この旅行には明るい前途があるわけではありません。初めて家族を離れて暮らす寂しさ、見ず知らずの土地で暮らす心もとなさ、伯父さんとはいえ、気を遣いながら暮らすわずらわしさ、そして、何よりも、いつ静まるともわからない兄の怒り。それらのことを思うと不安な気持ちで一杯だったことでしょう。今までのヤコブの人生の中でこれほどまでの失意落胆の思いを味わったことは一度もなかったはずです。
伯父さんの住むパダン・アラムへ向かう道々、それらの不安な思いに加えて、兄との仲違いを後悔し、心さいなまされていたかもしれません。あるいは自分の身の上に降りかかったこのような災難を理不尽なことと腹立たしく思っていたのかもしれません。
旅を続けるうちに、日も落ち、辺りは暗闇が覆い始めます。ヤコブはその場所で一夜を明かさなければならなくなりました。寂しさや心細さがいっそう心を覆ったことでしょう。石を枕に転寝をしていると、一つの夢を見たというのです。
その夢とは、階段がこちらへ向かって伸びていて、その先端を見上げると天にも達していたのです。しかも、その階段を通って神の御使いたちが上ったり下りたりしている不思議な夢でした。
その昔、人類は天に達する塔を建てようと、懸命になったことがありました。しかし、神によってその計画は砕かれてしまいまいました。有名なバベルの塔の話です。この塔によく似た階段状の塔がバビロンにはありました。これも、地上から天に達しようと願う人間が建てた建造物です。
しかし、ヤコブが見た夢は、人間が天に達したいと思う願望の表れなのではありません。ヤコブが見た夢は天の側から差し伸べられた階段でした。天に向かって伸びる階段ではなく、天から地に向かって伸びる階段なのです。神の側から差し伸べられているところに大きな意義があります。
神の救いの恵みは、人間が天への階段を上って勝ち取るようなものなのではありません。神の側から与えられるものなのです。この夢はヤコブにそのことを教えています。ヤコブは祝福の約束を手に入れるために、今までは強引なやり方をしたこともありました。そして、なによりもそれが原因で兄と不仲になって、家を出ざるをえなくなったのでした。
しかし、神はそのヤコブに対して、上から降りてくる階段の夢をお見せになって、恵みがただ上から注がれることをお示しになっていらっしゃるのです。しかも、その恵みは孤独を味わい弱り果てた者の上にこそ注がれているのです。
後に、主イエス・キリストはこうおっしゃっています。
「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」
イエス・キリストこそ天から差し伸べられた階段にほかなりません。アブラハム、イサク、ヤコブに約束された祝福は今なおキリストを通してわたしたちの上に注がれているのです。