キリストへの時間 2004年5月2日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 引き裂かれた家族

 おはようございます。山下正雄です。
 旧約聖書詩編128編は結婚式の時によく読まれる詩編です。その詩編は主の道に歩む人の幸いとそのような人が築く幸せに満ちた家庭の様子を描いています。

 「妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。 食卓を囲む子らは、オリーブの若木。
 見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。」

 この絵に描いたような幸せな家族の姿は、そのまま聖書に登場するすべての家族の姿なのかというと、決してそうではありません。聖書に描かれたアブラハムの息子、イサクの家族の様子を眺めてみると、目を覆いたくなるような姿です。イサクの名誉のために言いますが、もちろん、イサクの家族が取り立てて悪かったと言うわけではないでしょう。こんなにまでも家庭の内情が赤裸々に描かれてしまえば、隠しようがありません。どこの家庭にも同じような隠しておきたい事件は一つや二つあることでしょう。そういう意味では、家庭の内情が暴露されてしまったイサクは気の毒な気もします。
 しかし、聖書が人間の営みを隠さず描くのは、決して見せしめのためでもなければ、他人のプライバシーを覗き見たいという人間の好奇心を満足させるためもありません。それはわたしたち人間が共通して抱える問題を自分のこととして考えさせるためです。

 さて、イサクには双子の息子がいました。兄の名はエサウ、弟の名前はヤコブです。この二人の兄弟はあることをきっかけに、大変な仲たがいをしてしまいます。兄のエサウが激怒してしまう直接の原因は、弟のヤコブが父イサクを騙して、祝福を横取りしてしまったからです。このことを根に持ったエサウは心の中でこう言いました。
 「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」
 どこまで本気で弟ヤコブを殺そうと思ったのかは分かりません。しかし、そんな思いを実の弟に対して抱いてしまうと言うこと自体に、背筋の寒くなる思いがします。家庭の雰囲気もさぞかしぎすぎすしていていたことでしょう。そうした雰囲気をお父さんやお母さんは何とか治めることが出来なかったのでしょうか。いえ、それはほとんど不可能に近かったでしょう。なぜなら、父のイサクはエサウを愛し、母のリベカはヤコブを愛していたのですから、もとはと言えば、子供たちに対する自分たちのそうした態度が兄弟を仲たがいさせたともいえるのです。
 母リベカはヤコブに、急いで自分の親戚の家に逃れるようにと命じます。逃げるしか方法がないと思わせるほどに、エサウの怒りはリベカやヤコブに恐怖心を与えたのでしょう。「時がエサウの怒りを解決する」…リベカもヤコブもそう信じるしかありませんでした。
 なるほど子供はいつかは親のもとを離れていくものです。しかし、こんな形で家族が引き裂かれてしまうことは、なんとも悲しいことではありませんか。

 さて、傍でこの物語を読んでいるわたしたちは、他人事のようにこの家族の生き方について「ああすべきだった」「こうすべきだった」と論評することは簡単でしょう。確かに、聖書がこの家族のことを描いているのは、今を生きるわたしたちが同じ過ちを犯さないためであるかもしれません。しかし、それ以上に大切なのは、ここまでにっちもさっちも行かなくなった家庭を、神は決して見放されなかったという事実なのです。誰も過去にさかのぼってやり直すことは出来ません。わたしたちにできることは、わたしたちを捕らえて放さない神の恵みに生きることです。

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