「悲しむ人々は、幸いである。その人々は慰められる。」また、「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と、イエス・キリストはやさしく人々に、また、わたしたちに、語りかけておられます。
悲しみ、疲れや、さまざまな患いによる苦しみはしばしばわたしたちを弱らせ、望みをいだくことよりも、ともすればあれこれと思い煩いしがちです。しかし、イエス・キリストは、悲しむ人々や疲れている人々に本当の救いを約束しておられます。それは、イエス・キリスト自らすすんで、わたしたちと同じ様に、悲しみや病を担ってくださったからです。
旧約聖書のイザヤ書53章には、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。」とあります。そして、実に、「彼の受けたこらしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」のです。
この恵みは、イエス・キリストの十字架上の死においてもっとも明らかになりました。
イエス・キリストは、その愛するラザロという人が病気で死んだ時、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と言われました。それは、キリストを信じる者は皆、死の力に打ち勝って生きることを約束する言葉です。イエス・キリストは、ラザロの死を悲しむ人々を前に心に憤りを覚え、また、涙を流されました。それは、罪の世を覆う死の支配を憎まれる憤りであり、同時に、この罪の世の中で、うめき、苦しみ、嘆くばかりの人々への深い同情に満ちた悲しみでした。
そして、キリストは、墓に葬られたラザロに向かって、父なる神への祈りによって、「ラザロ、出てきなさい」と叫ばれると、なんと、ラザロは生き返って、墓から、手足や頭を布で巻かれたまま出てきたのです。実に、イエス・キリストは、死の支配をうちやぶり、人を死から命へと救い出す力のあるお方なのです。
イエス・キリストの復活を宣べ伝えたパウロという人は、こう言いました。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」とイエス・キリストの死への憤りと、罪人への深い同情と慈しみを知るとき、わたしたちはいたずらに死ぬことを恐れ、罪を嘆くばかりでなく、むしろ、イエス・キリストを信じ、神に立ち返る者へと変えられていきます。それは、信じる者皆に、いのちの喜びをもたらし、慰めと平安を生じるものです。
ある時、イエス・キリストはこう言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と。このみ言葉は、実に、今日を生きるわたしたちに対する招きの言葉です。
イエス・キリストのもとに、わたしの悲しみも恐れも全てお任せするとき、このみ言葉のとおり、わたしたちの心の内から、尽きることのないいのちの恵みと祝福があふれ出るようになります。そして、本当に、悲しむ人々は、幸いであるというイエス・キリストのみ言葉の恵みにあずかるようになるのです。
「死は勝利にのみ込まれた。」とのみ言葉の実現を見る人は本当にさいわいです。