わたしたちキリスト教会では、毎年、クリスマスとイースターという二つの大きなお祝いがあります。クリスマスは年の暮れに、イエス・キリストの御降誕をお祝いして、神さまのご栄光をほめたたえます。イースターは、春先に、イエス・キリストの十字架の死からのよみがえりをお祝いし、いのちの源でいます神さまをほめたたえます。
このように、キリスト教会の一年は、イエス・キリストのご降誕と十字架の復活の恵みを覚えることによって整えられ、導かれています。
さて、イエス・キリストが十字架につけられた時刻は、午前9時でした。それから、昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続きました。そして、3時にイエスは大声で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。それは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という意味です。
この叫び声は、神のひとり子でいますイエス・キリストが、父なる神さまから見捨てられるという、最も恐ろしい断絶の起こったことを言い表しています。しかし、この光景を見たそばに居合わせた人々は、預言者エリヤに助けを求めているとイエス・キリストを侮辱しました。そして、この時、イエスは大声を出して息を引き取られたのです。
わたしたちはイエス・キリストがわたしたちと同じように息を引き取ったと見なしがちですが、その事実はそうではありませんでした。むしろ、イエス・キリストは、自らすすんで、その命を父なる神のみ手の中にゆだねられたのです。ヨハネによる福音書10章17節で、イエス・キリストは、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」と言われ、イエス・キリストはご降誕の後、ただこの十字架の死に至る生涯の歩みをなしてくださり、自らすすんで、その命を十字架の上に、なげうってくださったのです。しかもそれは、決して自ら命を絶ったのではなく、命そのものを神のみ手にゆだねるという永遠の神のひとり子にしかあり得ない全く独特の死でした。
人は、神に命の息を吹き入れられて生きる者となりましたが、神との契約という約束を破ったために、すべての人は罪に堕落し、罪とその結果である死を恐れるようになりました。しかし、このイエス・キリストの十字架の死そのものが、実に、罪の刑罰死そのものであり、神の呪いの死であり、信じる者の身代わりの死であることを知るとき、わたしたちは、死を恐れるものから、死の恐怖を克服し、むしろ、生ける神の中にすべてをゆだねて生きる者へと変えられます。
キリストの福音を宣べ伝えたパウロという人は、
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」
「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」
とキリストにある救いの確かさを告白しました。神はその愛するひとり子を十字架につけてまで、失われた罪人を愛してくださり、なんとかして救い出そうとしてくださったのです。
この神から見捨てられるという最も恥ずかしく最も悲惨で最も恐ろしい十字架刑の中に、実は、神の愛といのちと希望の源があるのです。まさに、ここにわたしたちの救いの源があり、最高の喜びといのちの祝福があるのです。
「十字架の言葉は、救われる者には神の力です」と信じる者はさいわいです。