キリストへの時間 2004年3月21日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 見えないものを重んじる

おはようございます。山下正雄です。

 信仰の父アブラハムには双子の孫がいました。兄の名はエサウ、弟の名はヤコブでした。このヤコブは後にイスラエルという名前を神からいただき、イスラエルの12部族の父となります。兄のエサウを押しのけて、弟のヤコブが祖父アブラハムに約束された祝福を受け継ぐことになったのには、こんないきさつがありました。

 ある日のこと、エサウが狩りから帰ってきてみると、弟のヤコブが美味しそうなレンズ豆の煮物を作っていたのです。狩猟でお腹を空かせたエサウにはもう我慢できないくらいのいい香りです。思わずエサウはヤコブに言いました。
 「お願いだ、その赤いもの、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」
 何を思ったか、弟のヤコブはすんなり料理を手渡さないで、意地悪にもこう言いました。
 「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」
 長子の権利を譲れといわれても、今さら生まれた順番を変えることなどできるはずもありません。「はい、これが権利書です」と言って渡せるものがあるわけでもありません。どうせ「譲った」と口で言っても、何も変わるわけはないとエサウは高を括ったのでしょう。すかさず「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と答えます。
 こうしてエサウは一杯のスープのために長子の権利を失うことになったのです。
 後に新約聖書はこのエサウの行動を悪い例として「だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです」と警告しています(ヘブライ12:16)。

 英語にはこの逸話に由来する「sell one's birthright for a mess of pottage」という表現があります。「一杯のポタージュのために家督権を売る」というのがその訳ですが、一時的な利益のため永久的利益を手放す愚かさを表現する時に使います。

 ところで、この逸話を読むときに思い出す昔話があります。鎌倉時代の初めに成立した宇治拾遺物語の中に「清水寺に二千度参詣者、打入双六事(きよみずでらに、にせんどさんけいするもの、すごろくにうちいるること)」という話が出てきます。ある身分の低い侍が双六をして、負けに負けてとうとう渡せるものがなくなってしまったと言うのです。そこで思いついたのは、自分が清水寺にお参りした功徳を、双六に勝った相手に渡そうと言うのです。目に見えない功徳の権利など、渡したからと口で言っても渡せるはずもないと思ったのでしょう。ところがどっこい、間もなくしてその渡した男には不幸が訪れ、渡された男は幸福に恵まれたという仏教説話です。

 先ほどのエサウの話とは違いますが、しかし、1点だけ共通していることがあります。それは、目に見えないもの、手で触れることができないもの、そんなものには価値などないと思い込んでいる人間の愚かさです。
 今ここにあって、目で確かめられるもの、手で触って実感できるもの、それだけが人生にとって大切なものだと思い込んでいる生き方に、本当の希望があるのでしょうか。聖書が言うように「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」この信仰によって生きる時に、目に見えない神の約束と祝福を豊かにいただくことができるのです。

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