「地の塩、世の光」という言葉を聞かれたことがあるのではないでしょうか。トラクトという伝道用の簡単な説明文があります。そこに「カーテンを少しでも開けたら朝日が差し込んでくるように心の窓を開けて、イエス・キリストを迎えた時から生き方が輝いてきました」という言葉がありました。山道や暗い夜道に明かりがない時ほど心もとないことはありません。ケガをしたり、命を失うことだってあります。そんな時、遠くに灯りが見えたら助かったと思うでしょう。主イエスはマルコによる福音書4章で「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」と弟子たちに話されていますが、この聖書のギリシア語原文は、「灯火が来る」という擬人法がそのまま使われています。まさに暗闇の中では火が先に見えるのであって、持っている人がその後に見えてくるのですが、その光が見えた瞬間助かったと思うのではないでしょうか。
主イエスは暗いこの世に、神の国をもたらすためにこの世にお出でくださいました。そして神がご支配くださること、主イエスは神のご支配をもたらすために一生懸命お働きになりました。ご自分が目的としておられる神の国、神のご支配とは何かということを、灯火の譬えをもってお語りになられました。神の国、神のご支配が私達のところに来るということは、私達のところにそういう光が近づいてくるということなのです。
ニューライフという新聞紙大の大型のトラクトがあります。そこに次のような岡部里恵さんの証が載せられていました。一部分を引用させていただきます。<23歳の私は何一つかけたところのない幸せな家庭に誇りを持っていました。3人の子供に恵まれ、私の人生のすべては日差しの中にいるようでした。ところが、いつの間にか私達の心はお互いが自分中心という”罪”に対して無防備なまますぎて行きました。その「罪」は相手の心に届くいたわりの言葉を持たず、すなおな心は石のように変わり、高慢さと自分本位になってしまいました。表面は何事もないようでも、心の中では血を流し続けていたのです。私は相手の立場に立って、相手と向き合うこともなく、私の心を打ち明けることもないまま、自らを切断する思いで自立の道に踏み出してしまったのです。その身勝手な思い上がりの母親を子供たちはどんな思いで見ていたのでしょう。中学2年生の次女は急速に心のうちを爆発させ、その姿は、かつての私を代弁しているかのように泣き叫んでいるのです。私達が犯した罪の深さに、必死の思いで、神様に助けてください、と祈り続けました。その叫びの中で、私は20年前に信仰を与えられた高校生時代のことを思い出したのです。「神様は信じた者を守られると約束されました。私は約束を信じます。必ず娘をこの苦しみから救ってください」と悔い改めながら真剣に祈りました。恩師の先生を通して道は備えられていました。次女を待っていたのは、かつての私の担任の先生でした。次女の3年間は、娘なりに心の戦いの時でもありました。教会の牧師夫妻は全身で娘を受け容れ、祈り励ましてくださり、信仰告白へと導いてくださったのです。
まさに闇の中に光が輝いたのです。主イエスが「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と招いてくださるのですから、闇の中から光へつまり主イエスへ飛び込むことが必要です。自らを変革しないなら悔い改めは起こりません。自分が本当に闇の中にいる状態であること、心には罪という悲惨に満ち充ちていることを深く認めるとき、神はそこから立ち直れ、死んではいけないと御手を差し伸べてくださいます。これが主イエスの神の国への招きです。