キリストへの時間 2004年2月15日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

中山 仰(清和学園宗教主任)

中山 仰(清和学園宗教主任)

メッセージ: 主イエスの平安

 主イエスの弟子達がユダヤの慣習で、安息日にしてはならないと決められていた、麦の穂を手で摘んで食べたことに対して、ユダヤの律法学者たちは先生であるイエス様に詰め寄るという事件がありました。

 それに対して、イエス様は旧約聖書から「アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにもあたえたではないか」というダビデ王についての故事を引用して答えました。この旧約聖書の引用箇所を見ると、実は「アビアタル」ではなくて、その父親の「アビメレクが祭司の時に起きた出来事」であると気づきます。イエス様の記憶違いだったのでしょうか、間違えたのでしょうか。

 私は意図的におっしゃったと思っています。主の計り知れない知恵が、そう言わしめたのです。それは主ご自身の「人の子」としての自覚です。主イエスは真の王であり、地上の王ダビデになぞらえる「人の子」としての強い意識を見ることができます。父「アビメレク」の祭司としての権威は、その子「アビアタル」にも備わっています。同じように天におられる父なる神の権威は、「人の子」であるイエス・キリストにすべて備わっているからです。主イエスのイスラエルの真の王としての自覚がここにあります。父なる神の安息は、そのまま子であるイエス様の安息であるから「人の子は安息日の主でもあるのです。」そしてイエス様がこの世へと遣わされた理由は、真の安息を回復するためでした。細かな規則だけ一人歩きしていて、肝心要の主への礼拝をないがしろにしていることに対する鋭い警鐘なのでした。

 この1週間も私たち一人一人はそれぞれ様々な戦いがあり、傷つき苦しんだりすることもあると思います。週の初めの日曜日に教会に集められ、生ける神の言葉を聞き、礼拝をささげることによって、全ての恐れや困難から解放され安息に入ることが許されます。神の安息の内に、そこに集められた私たちも神の懐で憩うのです。私たちの心の「罪」を呼び起こす不安から解き放たれ、恐れから解き放たれて、帰るべき所に帰る、これが真の安息であります。そのために神は一人子イエス・キリストをこの世にお遣わしてくださり、十字架で私たちの罪の身代わりとしてささげてくださったのです。

 改革派横浜教会に長老杉山敦さんという私立小学校の校長をしておられる方がいらっしゃいました。1997年の6月18日金曜日の夜校長会の席上で、心筋梗塞のため62歳で召天されました。明くる日の19日土曜日は娘さんの結婚式です。普通嫁ぐ前の晩は、娘と共に食事などをするでしょうが、まじめな性格で会議に出られていたのでした。さてこの際結婚式を延期するのでしょうか。ご家族は考えあぐねた結果、誰よりも娘の結婚を望んでいたであろう父親の意志を受けて内輪だけで結婚式を挙行されました。そして家族は遺体に寄り添い、明くる日の日曜日に礼拝、その夜前夜式、月曜日に葬儀となりました。悲しい出来事でした。しかし私たちの主イエスは安息日の主でもあります。信じる者には、死から復活された主の永遠の安息の命が約束されています。あらゆるしがらみから、死の恐怖すら解放され、自由に平安に生きることが許されます。主にある者は、永遠の安息の喜びの内に憩い、積極的に生きることができます。十字架の恵みによる以外はありません。

Copyright (C) 2004 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.