キリストへの時間 2004年2月8日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

中山 仰(清和学園宗教主任)

中山 仰(清和学園宗教主任)

メッセージ: イエスの葡萄酒

 男たちは体験したこともないのに、「産みの苦しみ」などという格言をまことしやかに使うことがあります。イエス様は譬えの名手です。聖書に載せられている譬えも思わずうなってしまうものばかりです。断食について問答している時に「新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、あたらしい革袋に入れるものだ」とイエス様はおっしゃいました。実際、新しいぶどう酒を古い革袋に入れると、ぶどう酒が発酵して弾力性のない革袋はずたずたに破れてしまうそうです。

 この譬えでイエス様が言いたかったことは、旧い儀式的な礼拝方法は、「新しい」つまり真打ちである主イエスが来られた時には、間尺に合わないというのです。ただし旧約時代のものは無意味であるということではありません、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」(マタ5:17)とも言われていることからも分かります。ではここで「旧い方がよい」と言っていることと矛盾しないのでしょうか。一般的には古典の思想や建築物、お酒にしても旧いもので良いものが多いのではないでしょうか。ですからここで言おうとしていることは、新しいものというのは、旧いものを土台にしており、なおかつ「旧いものを凌駕した形で完成させている」という独特の思想を看ることができます。旧いか新しいかという単純な考えでなく、神と一致していた良い関係が崩れて修復できなくなっていたものが、まさに奇跡的な介入であるイエス・キリストと新しい関係、一番初めの神と人との関係、即ち神との一致一体に戻ることであると私は思います。全く関係のなかった者が結ばれる。これを主は「結婚」の比喩をもって語っています。ですからイエス・キリストの譬えというのは、読めば読むほど、通常の使い方以上で誰にも追随できない深いものであるといえます。

 通常の結婚でもめでたいことなのに、さらに神との関係の回復になる結婚、ここでは「イエス・キリストと教会の関係」に譬えられていますが、その花婿である主イエスがおられるのにどうして断食などできるでしょうかというものです。しかもその花婿が取り去られる時が来るというのです。その時には断食せざるを得ない程悲しいものとなります。断食は人間の食欲を奪う過酷な行為です。年がいったとき最後まで残る欲望の一つが断食であると言われています。それを断ってまで望む時は祈るときです。私たちは自分で自分をコントロール出来ません。神から離れていても何とも思いません。神から離れている関係に気づいても、神に赦してもらえる価値も手段もありません。ただ神の憐れみによる以外に救われません。と砕けた心をもって祈るとき、神の愛を知ります。自らの罪に死に、自分に打ち勝つ力が全くないからこそ、主なる神は、一人子イエス・キリストをお送りくださり、しかも私達の罪の赦しのために、身代わりとしてイエス様を十字架につけられる方法を用いて、私達に回復の路を示してくださいました。その十字架の死に赴くのは、もう直ぐです。だから今、花婿であるイエス様がおられるときには喜びなさいとおっしゃるのです。それ以来、主イエスを救い主として信じる者は、もう断食などしていなくてよいのです。常に喜びなさいと天国の祝宴に招いてくださいます。

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