主イエスがある家でお話をなさっている所へ、突然屋根が破られ、上からタンカが吊り降ろされ病人が降ろされて来ます。それは、舞台になっているパレスチナでは、雨があまり降らないこともあり、屋根の梁に木の枝を横たわし、それを粘土で固定するという簡単な方法がとられていることによって可能です。
主イエスは、「その病人」にではなく、「その人たちの信仰を見て」その動けない中風の病人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。これは興味あるやりとりです。イエス様は、ここで明らかに友だちの熱心さにほだされたのです。普通満杯の人で中に中に入れないのでしたら、一刻を争う重い病気ではないのですからイエス様の話が終わるまで待っても良さそうです。でも彼らの熱心は、今すぐにでも屋根を破って吊り降ろしてでも、友だちを診てもらいたかったのでした。病人の友だちは、病人と全く同じ気持ちになっていたということです。さらに評判のイエス様が近くに来られた、この方以外に治せる方はいないと強く確信していた点でこのような行動に走り、しかもイエス様に評価されたことです。
ところが、病気を治してもらいたいのにイエス様は「罪が赦される」と言われた点が奮っています。「罪を赦す」ことと「病気を治す」こととはどちらが難しいのでしょうか。病気を治すことは、お医者さんやある種の自然治癒だってあり得ることです。ところが「罪を赦す」ことは真の神以外におできになりません。病気が治るということも大切なことですが、それでもまたいつか病気をしたり、召される時だって来るはずです。ところが罪が赦されていたら、心おきなく神の前に出ることができますので、死すらその点では怯えることはなくなるはずです。
私たちは、病気については、少しでも体調がすぐれないと気になって薬を飲んだり病院に診察に行きます。しかし心の病である罪については、気にしませんし、大変な病であると思っていないのではないでしょうか。罪は死に至る病なのです。
私たちの清和女子中高等学校では、校長や宗教主任以外に教師たちも毎朝のチャペルを順番でお話しします。ある女性教師の証しから「罪」について教えられましたので、要約して紹介します。その方のお母さんは、先生を産んでから体調を崩し人工透析をしなければいけないほどになりました。そんな訳で、物心ついた甘えたい時期にほとんど寝付いたままで抱き上げてもらったこともなく、いつしかそんな母親を恨むようになっていたそうで、それは大きくなるまで続きました。高校生のある時、たまたま家には母親とたった二人だけになったことがありましたが、いつものように母親の部屋には意識して近づかなかったそうです。しかしふと虫が知らせて母親の様子をそっとのぞき見ると、母親は危険な状態であったそうで、急いで救急車を呼んで何とか一命は取り留めたことがありました。その時に自分は何と罪深い者なのかと強く自覚したそうです。自分の子供を母親ならば誰でもその腕に抱きしめたいであろうに、出産の後遺症からそれができないばかりか、命の危険にさらされているときに最愛の娘も側に寄ってくれないで一人で苦しんでいなければならない。その自分の心の底に巣喰う恐ろしい罪を痛いほど知った。そういう自分は本当に赦されるのでしょうか。心から悔い改めた時、主イエス・キリストは私の罪の赦しのために十字架にかかって、私の身代わりとして死んでくださったことにただ感謝し、受入れさせていただいたと告白しておられました。
私たちは、自分の罪を認めたとき、主イエスの思いがけない言葉を聞きます。「子よ、あなたの罪は赦される」と。ただ熱心に主イエスのもとに来るという小さな信仰の火を消すことなく、心砕けて主を求める全ての人の救い主となってくださったのです。