キリストへの時間 2004年1月25日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神が備えてくださる

 おはようございます。山下正雄です。

 旧約聖書創世記に登場するアブラハムにまつわる話の中で1番印象に残るものはといえば、やっと生まれた唯一の後継ぎを、無残にも焼き尽くす献げものとして神にささげるようにと命じられる場面です。誰が聞いても、そんなことを命じる神の言葉には耳を疑ってしまいます。
 その事件を記す創世記の記事には、アブラハムの口からは一度も「何故?」という言葉が聞かれません。アブラハムは疑うということを知らなかったのでしょうか。確かに信仰深いアブラハムには神を疑うなどということはなかったのかもしれません。しかし、神を疑うことがなかったとしても、いったい神が自分に対して何を求めていらっしゃるのか、その説明は納得行くまで聞きたかったはずです。
 「主よ、何故ですか?」「主よ、何をお求めになっていらっしゃるのですか?」「主よ、それなら、あなたが約束してくださったことはどうなるのですか?」
 アブラハムの心の中にはたくさんの疑問が矢継ぎ早によぎったに違いありません。

 創世記の記事では、神の命令を記す行と、その命令を受けてから行動に出るアブラハムのことを記す行までの間には、たったの一行の言葉も記されません。ただ「次の朝早く」息子と僕たちを連れ立って神の示す地に向かったとだけ記します。
 その間のことが、たったの一行も記されていないとはいえ、命令を受けてから行動に移るまでの間に、一晩の時が流れているのです。その一晩の時を、アブラハムがどんな気持ちでどんな風に過ごしたのか、読み手は想像力を働かせて読まなければなりません。

 旅立つ朝のことを記した記事に続いて、すぐに3日目のことが記されます。その間の出来事もはやり一行も記されません。神の示された場所は遠いところだったので、家を出てから3日も時間が流れたのです。その間、アブラハムは何も考えなかったのかというと、そうではなかったはずです。わたしたちが苦悩するのと同じように、アブラハムも行く道々、様々なことを思い巡らせていたことでしょう。ここでも、読み手のわたしたちは想像力豊かにアブラハムの心の中を思う必要があります。
 旅の途中では、連れの者たちと色々なことを語りあったことでしょう。また、今度の旅がどういう目的なのか、連れの者たちから尋ねられもしたでしょう。その中でも、一番答え辛かったのは、献げものとして献げる予定だった実の息子、イサクからの質問であったはずです。イサクはこう尋ねました。

 「わたしのお父さん。火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」
 この、我が子からの質問ほどアブラハムの胸に刺さる質問はなかったことでしょう。しかし、アブラハムは静かに答えます。
 「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」
 一見、思いつきで口から出任せに答えたような言葉です。しかし、これこそアブラハムの信仰の中心なのです。アブラハムはこれまでの人生の中で、そして、この何日かの旅の中で「神が備えてくださる」という確信を深めたのです。

 「神が備えてくださる」という信仰がなければ、わたしたちの歩みはたちどころに闇の中に落ちてしまいます。順境の中にあっても逆境の時にあっても、雨の日も日照りの日も、父親のように神が備えてくださると確信するときに、真の平安がわたしたちの心のうちに宿るのです。

Copyright (C) 2004 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.