おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書、創世記に登場するアブラハムには、神から大きな約束が与えられていました。それは、アブラハムの子孫が星の数のように繁栄するというものでした。しかし、この約束を受けたとき、それを確信できるような良い材料は何もありませんでした。何よりもそのとき、アブラハムには子供が一人もいなかったのです。その上、アブラハム夫妻は自分たちでも自覚するほど高齢に達していました。約束だけが先行して、それに伴う確証はなに一つ与えられてはいなかったのです。それでも、期待し、信じつづけて来ることが出来た のは、それを約束してくださった神への信頼がアブラハムにはあったからです。
やがて時がたち、男の子がアブラハム夫妻に与えられます。約束を待ち続けたアブラハム夫妻にとって、それはそれはどれほどうれしい出来事だったことでしょう。その男の子をイサク (「笑い」)と名づけます。赤ちゃんを抱いたこの夫妻の顔に浮かんだ笑みが目に浮かんできそうです。また、このうれしい知らせに、周りの人たちがどれほどうれしい笑顔を浮かべたことでしょう。
何もかもが幸せに満ちたこの家族に、神の祝福の約束がいつまでも続くようにと願いたくなるような光景です。
しかし、その時の喜びもたちどころに消え去っていくような、暗い事件が襲いかかります。元はといえば、自分たちがまいた種かもしれません。
女奴隷ハガルとアブラハムの間にすでに生まれていた男の子イシュマエルのことで頭を抱える問題が再び持ち上がります。アブラハムの妻はこのイシュマエルが自分の子イサクをからかうのを目撃します。それは男の子にはありがちな光景かもしれません。しかし、アブラハムの妻サラには我慢のできない事件でした。さっそく夫アブラハムのもとへ行って、イシュマエルを家から追い出すようにと訴えます。
実は同じようなことが、以前にもありました。それは女奴隷ハガルがイシュマエルを身ごもった時のことでした。そのときもサラはアブラハムに訴えでて、身重のハガルを家から追い出させたのです。あの時のアブラハムの対応は、妻サラの言うがままでした。信仰的に思い悩むこともなく、「好きなようにするがいい」と、半ば捨て台詞のように言い放ちます。
しかし、今度ばかりは妻の言いなりになって、「好きなようにするがいい」などとは即答しませんでした。
聖書は「このことはアブラハムを非常に苦しめた」と記しています。以前、同じようなことで失敗しているだけに、アブラハムの苦しみはいやが上にも増しています。答えがすぐ見えてこないだけに、その苦しみはいっそう大きなものです。責任放棄してイシュマエルを追い出すことができれば、どれほど気楽なことだったでしょうか。しかし、アブラハムの良心の呵責からそれもできなかったのです。
アブラハムは以前のように短絡的に責任を放棄することはしませんでした。抱えている問題がどんなに大きく、また自分を苦しめるほどのことであっても、神からの答えを待ちつづけました。自分の苦しみを知っていてくださる方にすべてを委ねていたのです。
神はそのアブラハムに語りかけます。
「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい」
神はご自分を頼る者の悩みを引き受けてくださいます。アブラハムはそのことを信じていたからこそ、苦悩の中にあっても、その苦しみと向かい合い、苦しみから解放されることが出来たのです。