おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書創世記に登場するアブラハムは、神から「友」と呼ばれるほどの人物です(イザヤ書41:8)。あるときのこと、神が計画していることを神の口から聞かされます。それは悪の町、ソドムとゴモラに対して神が下そうとしていた裁きについてでした。この町の悪を訴える叫びが天にまで達し、ついに神が裁きの腰をあげられたからです。
「人が心に思うことは、幼いときから悪い」とご存知である神は、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」とかつて誓ってくださいました(創世記8:21)。その神が怒りを表すほどのことですから、ソドムとゴモラの罪がどれほど大きなものであったのか、容易に想像できます。
「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」と主なる神はおっしゃいます。いくらアブラハムが神の友と呼ばれるにふさわしいとしても、神の計画を知らされることは、アブラハムには荷が重かったに違いありません。自分自身のことならまだしも、あるいは、他人に関わるうれしい知らせならまだしも、聞かされたことは罪に対する恐ろしい裁きの知らせです。
確かに、アブラハムが無関心な人間であったなら、何を聞かされても「あぁ、そうですか」と聞き流して済ませたはずです。しかし、アブラハムは神から知らされたことを他人事として聞き流すわけには行きませんでした。
もちろん、神が滅ぼそうとされていた町には、甥のロトたちが住んでいたということもあったでしょう。自分の大切な親戚が、この災害の巻き添えを食うはめになるのは、アブラハムには堪えられなかったでしょう。しかし、アブラハムの関心は自分の親戚のことだけにあったのではありません。それはアブラハムの神への執り成しの言葉からわかります。アブラハムはこう祈りました。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか」
アブラハムはその数を徐々に減らしていき、ついには「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません」と訴え、町を滅ぼさないようにと神に懇願します。
もし、アブラハムがロト家族のことだけに関心があったのだとすれば、ロトとその家族をお助けください、とだけ祈ればよかったはずです。何もわざわざ回りくどくこんな言い方をする必要はありません。
アブラハムがロトとその家族が救われることを願っていたことは間違いありません。しかし、それは同時に罪のうちに滅んでしまうソドムやゴモラの町の者たちへの執り成しでもあったのです。
アブラハムがこのような執り成しの祈りを真剣に祈ったのは、何も自分を正しい者の立場においていたからだとは限りません。むしろアブラハムは自分が神の御前に罪人であることをよく知っていたはずです。自分の身を守るためにウソもついたことがありました。そういう自分の罪と弱さとを誰よりも知っていたからこそ、他人の罪をまるで自分のことのように真剣に祈ったのです。
アブラハムは信仰の父と仰がれる人物です。アブラハムが罪に滅び行く者のために真剣に祈ったことのうちにそこ、その信仰的な姿を見ることが出来ます。