新しい年を迎え、いかがお過ごしでいらっしゃいますか。山下正雄です。ラジオをお聞きのあなたは期待に満ちた新年を迎えられたでしょうか。それとも、悲しみや苦しみの中で新しい年を迎えられたのでしょうか。お一人お一人の上に、神様からの豊かな祝福がありますようにと、心からお祈りいたします。
さて、年が改まる時に、すべてが改まりますようにと願うのは、人間誰しも同じことと思います。新しい気持ちで年を始めるために昨年末のうちに大掃除もしたことでしょう。部屋が片付いただけで、気持ちも随分変わるものです。あるいは、新しい服に袖を通して、心機一転、身も心も引き締まった気分でお正月を迎えた方もいらっしゃるでしょう。たかが服1枚のことでも、気分は変わるものです。
しかし、ほんとうにすべてを改めて、新しいスタートをきるのは、そうそう容易ではないことは誰もがよく知っていることです。人間が努力して変えることができることもたくさんあるでしょう。しかし、最善を尽くしてもなお自分の力ではどうしようも出来ないことがたくさんあることも事実です。人間とは力の無いものです。その現実を知っているからこそ、お正月になると神仏を頼って多くの人がお参りに行くのでしょう。どんな宗教であれ、その根源には人間の頼りなさへの深い洞察があるものです。
新しいものを次々と生み出し、改良してきた人間ですが、その人間がもっとも不得意なのは自分自身の心を新たにすることです。心変わりすることはあっても、心を新たに作り変えることは簡単ではありません。
旧約聖書に記された歴史は、いかに人間の心が頑なで、なかなか変わるものではないことをよく示しています。神によって正しい道が示されたからといって、正しい道を知っていることと、それに従うこととがどれほど大きな隔たりがあるのか、旧約聖書の物語を読むたびに思います。
モーセによって導かれたイスラエルの民がそうでした。神からの掟を教わったにもかかわらず、その心はまことの神から離れていきます。ダビデ、ソロモンの王国時代に栄えたイスラエルもそうでした。立派な神殿を築き上げ、神に従う心を新たにしたはずなのに、国が滅びるほどにその心は荒廃していきます。
このように当てにならない人間を、当てにならない人間の心であるからこそ、神はこうおっしゃいました。
「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」(エゼキエル36:26)
この新しい心、新しい霊を作り出す点で、人間は力不足です。しかし、聖書の神にはその力がおありです。神はイエス・キリストをお遣わしになって、この預言の言葉を成就してくださいました。
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)と聖書は語ります。
本当の新しさの源は、このイエス・キリストのうちにあります。イエス・キリストとともにあるとき、イエス・キリストと結びつくとき、わたしたちは新しく作り変えられ、古いものは過ぎ去ったと感じることができるのです。
今年一年の歩みが、このキリストと結びついて新しい力を得ることが出来ますようにとお祈りいたします。