BOX190 2004年12月29日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「赦さなければいけませんか」 T・Hさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今年最後のご質問です。T・Hさん、男性の方からのお便りをご紹介します。Eメールでいただきました。
 

「山下先生、前回は私の質問を番組で取り上げて頂いて有難う御座いました。今回は私の問題について聞きたく存じ再びお便りします。それは主の祈りにある「私たちが私たちに負い目のある者を許したように」の一節です。その内容はとてもここでは書けないのですが、私もどうしても許せない人たちがいるのです。私の場合はたいしたことはないのですが、例えば自分の家族を殺された人とか最近多いと思います。その様な極端な場合でも相手の人たちを許さなければならないのでしょうか? 私が長年悩んできた問題です。番組で再び取り上げてもらえたらうれしく思います。よろしくお願いします。」


 T・Hさん、何時も番組を聴いてくださってありがとうございます。そして、今回は今年最後のご質問になってしまいましたが、一年を締めくくるに当たって、色々と考えさせられるご質問だと思いました。

 一年を終えて、新しい年を迎えようとしているときに、誰かと敵対関係にあると言うことは、とても心苦しいことであると思います。敵対関係と言うほど大げさなものではないとしても、どんな小さなことでも、誰かとの間にわだかまりを持ったまま年を越すのは気持ちのいいものではありません。まして、その状態が何年も続いているのだとすれば、どれほど心乱される思いで毎日をすごして来られたことでしょうか。

 もちろん、誰かと敵対関係にある、誰かとの間にわだかまりがある、その原因が自分自身にあるのだとすれば、そこから抜け出す道は、自分自身が相手に赦しを請い、謝罪するしかないでしょう。

 しかし、そうではなくて相手の側に原因がある場合には、どうなのでしょうか。もちろん、相手に非があるのか、こちらに非があるのか、冷静に考えて見る必要があることは言うまでもありません。たいていの場合には、 1かゼロかではなくて、相手にもこちらにも非があることが多いでしょう。相手の方が少し非が多いこともあるでしょうし、自分の方がほんの少し非が多い場合もあるでしょう。いずれにしても、そういうことに気がつけば、案外簡単に赦しあえるものです。

 しかし、百パーセント相手に非がある場合もあります。きっとT・Hさんが長年悩んで来られた問題は、そういうケースだったのだろうと思います。また、お便りの中に出てきた犯罪がらみのケースにはそういうものが最近は目立ってきました。まったくのとばっちりとしか言いようがない事件に巻き込まれて、命を落としたり、大変な被害にあうということも稀ではなくなっている世の中です。そういう場合、あの主の祈りの中に出てくる「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」という言葉はいったいどう理解すべきなのでしょうか。

 まず、一番最初に私の頭に浮かんだのは、マタイ福音書の18章15節以下に記されたイエス・キリストの教えです。もちろん、ここでイエス・キリストが教えておられることは、犯罪に関する事柄ではありません。もっと宗教的な共同体にかかわる問題を取り上げています。ですから、そこで言われていることが、直ちにわたしたちの日常生活で起こる事のすべてに適用できるとは言えないかもしれません。しかし、考えるヒントにはなるのではないかと思います。

 そこで、まず、着目したいことは、そこで取り上げられている「赦し」の問題は、少なくとも、自分の罪を自覚し、その罪の赦しを請うている相手に対する赦しの問題であると言う点です。そういう相手に対しては何回でも罪を赦すようにとイエス・キリストは教えています。そして、その大きな前提となる事柄は、私たち自身が神によって罪を赦していただいている存在であるということです。そうであればこそ、罪を認め、赦しを請うている人に対して、自分が赦されたのと同じように相手を赦すことが命じられているのです。

 ただ、繰り返しになりますが、その相手が自分の罪を認めず、悔い改めることもしないのであれば、そういう人のことまでも赦しなさいとは教えていないと言うことです。

 ですから、相手が本当に自分の罪を認め、心から悔い改めようとしているのであれば、その相手を赦すように努めることはクリスチャンとして心がけなければならないことだと思います。

 わたしたちが心から相手を赦せないと言う場合、たいていはこの条件を満たしていないことが多いのではないかと思います。そういう相手を赦せないのはある意味で当然でしょう。

 それと、もうひとつ誤解してはならないことは、相手を赦し、相手を受け入れ和解すると言うことは、相手の犯した罪を罪ではなかったことにしてしまうのとは違います。罪は罪ですから、どんなに罪を犯した人を赦したからと言って、その同じことを今後してもよいことにはなりません。罪は罪として憎むべきでしょう。

 ところで、悔い改めない人を赦す必要がないとは言いましたが、それは相手が悔い改めるまで、何もしないと言うことではありません。もし出来るのであれば、かたくなに閉ざした相手の心を開くように、努めることも大切でしょう。

 さて、以上のことを語りながら、もう一方でイエス・キリストの別な教えにも心を留めてみました。イエス・キリストは「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」とおっしゃいました(ルカ6:28)。また「あなたがたは敵を愛しなさい」(ルカ6:35)ともおっしゃいました。いったいこれらの言葉はどう理解すべきなのでしょうか、特に先ほどの「赦し」の問題とどうかかわってくるのでしょうか。

 確かにこれらの教えは、無条件的な絶対の赦しを教えているようにも受け取れます。なるほど、愛しているのに赦さないというのは言葉の矛盾のように受け取れます。

 しかし、これらの言葉は、より高い次元のことを問題にしているのだと私は思います。愛や祝福に満ちた世界はキリスト教にとって目指すべき理想の世界です。必要に応じて罪を罰することも、また、赦しを与えることも、愛や祝福に満ちた世界を実現することと無関係になされるべきことではありません。そのことを見失なってしまうならば、罪を赦すことにも罪を罰することにも意味がありません。

 もし、相手を愛する心を失ってしまえば、ほんとうに赦すこともできなくなってしまいます。イエス・キリストはそういう心のあり方を問題にされているのではないでしょうか。

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