BOX190 2004年12月22日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「何をどう祈れば?」 ハンドルネーム・もこさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームもこさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、はじめまして。先生の番組は前からネットで時々聴いたり、原稿を読ませていただいたりしていました。今までも、何度か先生に聞いてみたいことがあって、メールを書きかけたりもしましたが、なかなか勇気がなくて出せませんでした。でも、きょうは思い切って出します。

 実は友人があと数ヶ月の命と宣告されてしまったのです。人間はいつかは死ぬことはわかっていますが、でも、自分と同じ年の友人がこんなにも早く召されてしまうとは、とても受け入れがたい気持ちです。

 その友人もわたしもクリスチャンですから、何の恐れもないことは頭ではわかっています。地上での命が終わっても、イエス様といつまでも一緒に過ごすことができる永遠の命のことも信じています。しかし、それでも気持ちの整理はなかなかつきません。わたしがそうなのですから、本人はもっと辛いのではないかと思います。

 『祈るしかない』という言葉が何度も心の中をよぎりましたが、祈り始めると何をどう祈ったらいいのか、分からなくなってしまいます。

 先生、何かよいアドバイスをお願いします。」

 ということなんですが、もこさん、メールありがとうございました。もこさんがおいくつなのかは分かりませんが、ご自分と同い年の人が亡くなるのは、とても辛いことだと思います。まして、友人とあれば、ご自分に重ねていろいろと思うところがおありなんでしょうね。心の中の痛み、お察しいたします。

 もちろん、この世の中にはどんなことがおこるのか、ときどき常識を超えた出来事にわたしたちは驚かされることがあります。数ヶ月の命と言われていても、医者も驚くほどの奇跡的な回復が起こると言うこともあります。どんなことがあっても希望をもち続けることは大切なことだと思います。

 しかし、残念なことに、すべてがわたしたちの希望どおりに行かない場合もあります。むしろその方が多いのかもしれません。もこさんの祈りの悩みは、その辺りにも一つあるような気がします。

 医者が予告したとおりにだんだんと病状が悪化していく姿を見るときに、「癒してください」と祈ることがほんとうに御心なのか、むなしく感じられることもあります。そうかと言って、もう召されてしまうことを前提に祈ることも、何か自分の信仰の足りなさを示しているようで嫌気がさしてくるということもあるでしょう。

 死期が近づいている人のために、何をどう祈るのか、ほんとうに祈っていてジレンマを感じることがあると思います。

 もこさんからのご質問を前に、もう一度、祈りとは何なのだろうかと考えました。

 もし、祈りが、自分の願いによって神様を動かすことであるとすれば、一所懸命に祈った方が良いに決まっています。しかし、もし祈りがそういうものであるとすれば、この世の中はそれぞれが抱く理想と欲望がごちゃ混ぜになった混沌とした世界になってしまいます。

 だからこそ、キリスト教の祈りでは、自分の一方的な願いではなく神のみ心を祈るようにと言われています。しかし、問題は何が神のみ心であるのか、それは誰にも明らかであるとはいえません。むしろ、何が御心であるのか、私たち自身にも隠されていて分からないことの方が多いかもしれません。

 具体的なことに話を戻しますが、そのお友達が奇跡的に回復されることが御心なのか、それとも、同じ年代の他の人よりも早く天に召されることが御心なのか、それはわたしたちにはわかりません。だから祈れないというのでしょうか。あるいは、とにかく御心を教えてくださいと祈るべきなのでしょうか。

 わたしは、自分の素直な気持ちを神様に訴えること、それが大切ではないかと思います。それは、決して神様の御心を求めることとは矛盾するものではありません。

 「御心がなりますように」と祈るように、主の祈りの中で教えてくださったのはイエス・キリストご自身です。しかし、そのイエス様は、ゲツセマネの園で、やがてご自身が受けなければならない十字架を前に、こう祈りました(マルコ14:36)。

 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」

 イエス様は「この杯をわたしから取りのけてください」とご自分の願いを率直に口に出して祈りました。ですから、自分の願いを口に出して祈ることは、決して間違ったことではありません。ただ、イエス・キリストはご自分の願いを祈った後で、こうも祈りました。

 「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」

 大切なことは、自分の願いが何であるかを知っていることと、その願いが神様のみ心とどう一致するのか、あるいはしないのかを謙虚に受け止めようとする姿勢ではないでしょうか。ですから、病が回復するようにと祈ることは、少しも御心を知る祈りと矛盾するものではありません。ただ大切なことは、イエス・キリストが模範を示してくださったように、そう祈りつつ、神の御心が行われる時にそれを受けとめようとする心の姿勢を保ちつづけることではないでしょうか。

 ところで、イエス・キリストはマタイ福音書の6章で祈りについて教えてくださいましたが、天の父はわたしたちの必要をご存知であるとおっしゃいました。祈りとはわたしたちの本当の必要がどこにあるのかを学ぶことでもあると思います。

 死に行く友を前にして、わたしたちの頭は、何とかしてそのプロセスを止めることは出来ないかといっぱいになってしまいます。あるいは、もうだめだとすぐに諦めきってしまいます。しかし、そのことだけで頭がいっぱいになってしまうのではなく、その友が何を必要としているのか、そこに心を向かわせ、心の目を見開くこと、それも大切なことです。もし、そこに心を向かわせるならば、いくらでも祈りの課題は出てくると思います。

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