タイトル: 「ほんとうの幸せとは何ですか」 愛知県 S・Yさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は愛知県にお住まいのS・Yさん、女性の方からのご質問です。携帯メールでいただきました。お便りをご紹介します。
「山下先生、はじめまして。ぶしつけな質問かもしれませんが、『ほんとうの幸せ』とは何ですか。教えてください。」
と言うことなんですが、S・Yさん、はじめまして。メールありがとうございました。携帯からのメールで、とても短い質問ですが、決して簡単に答えられる質問ではないと思います。メールをいただいて、S・Yさんのことを色々と想像いたしました。
どうして「ほんとうの幸せ」について知りたいと思われたのでしょうか。小さい頃から辛い暮らしを送ってこられたのでしょうか。あるいはまったく逆で、何一つ不自由なく暮らしてきた中で、ほんとうの幸せが何だかわからなくなってしまったのでしょうか。あるいは、誰か他の人の生き方に触れて、本当の幸せについて考える機会が与えられたのでしょうか。あるいは何か惨めな思いをするような壁にでもぶつかられたのでしょうか。あるいはまた、今まで幸せだと思っていたものが、どこかへ消えうせてしまわれたのでしょうか。
いろいろとS・Yさんのことを思い浮かべながら、人間には人生の色々な場面で「幸せ」について考える機会があたえられるものだと改めて思いました。
実は「幸せについて」この番組でも何年か前に一度取り上げたことがありました。その時お話したことは、「幸せ」と言う言葉の一般的な意味から出発して、果たして聖書では「幸せ」についてどう教えているのかをお話しました。
そのときの番組の繰り返しになってしまいますが、国語辞典で「幸せ」と言う言葉をひくといろいろな意味が出てきます。しかし、わたしたちがふつう求めている「幸せとは何か」という場合の「幸せ」はただ単に「幸運である」とか「めぐり合わせがいい」という意味ではありません。人々が求めている「幸せ」、あるいは「幸福」とは「恵まれた状態にあって、満足に楽しく感ずること」(岩波国語辞典)です。「恵まれた状態」というのはある程度客観的であるかもしれません。例えば日本国憲法の25条では「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定められています。そして、国はそのために努めなければならないと定められています。「健康で文化的な最低限度の生活」は決して幸せな生活ではありませんが、しかし、それが幸福への一つのステップであることには違いありません。国はそのために健康で文化的の最低限が何であるか客観的・具体的な基準を設けています。
もっとも、何をもって恵まれた状態であるとするのかは、必ずしも「健康で文化的な生活」という基準ばかりではないことも確かです。まして、「満足に楽しく感ずること」ということが「幸せ」の定義であるとすれば、その人その人が何に満足感を覚え、楽しさを感じるかという主観の問題になってしまいます。極端な話、どんなに貧しく病があったとしても、本人が幸せだと感じれば、それが幸せですし、逆に、どんなに文化的で健康な暮らしを送っていても、本人が満足感を感じなければ、それは幸せとは言えなくなってしまいます。
もっと極端に言えば、幸福を求めることは、つまるところ自分の満足や楽しみを求めることに他ならないと言うことになるのです。そして、そのことに疑問を感じる時、ほんとうの幸せとは何かという問いが出てくるのではないかと思います。
さて、ずっと前にこの番組で「幸せ」についてお話した時、聖書では「幸せ」についてどう語っているのかを取り上げました。聖書の世界でも「恵まれた状態」や「満足に楽しく感じる」心のあり方を否定するわけではありません。問題は、何を恵まれた状態と思うのか、何に満足し、楽しさを感じるかと言うことなのです。旧約聖書の中に「あなたはわたしの主。 あなたのほかにわたしの幸いはありません。」という言葉があります。詩編16編の言葉です。また、こんな言葉もあります。「いかに幸いなことか 主を畏れ、主の道に歩む人よ。」詩編128編の言葉です。
要するに聖書の世界ではまことの神のうちにこそ本当の恵まれた状態があり、そこにこそ本当の満足があると言うことなのです。神から離れた人間の心にはぽっかりと穴がいた状態なのです。その穴は神以外のどんなものを持ってきても、満たされないのです。
さて、前回同じご質問を取り上げた時には、だいたい今まで述べてきたようなことを大筋でお話しました。今回はもう一点だけ、前回言いそびれてしまったことを加えたいと思います。それはほんとうの幸せは、ただ、神との関係だけですべてが完結すると言うことではないと言うことです。確かに、聖書には神こそ究極的な幸せの源であると言われています。しかし、その神は自然をつくり、そこに人間社会を置かれたのです。人間はたった一人では生きていくことが出来ません。そういう存在として神は最初から人間をそのようにお造りになったのです。ですから神は特に隣人愛の大切さを教えられました。言い換えるならば、神が望んでいらっしゃる人間の幸福は、隣人愛に生きる人間社会によって初めて生まれてくるものなのです。人は愛し愛されることによって、幸福な社会を築き上げていくのです。
さきほど、人間の幸福は「つまるところ自分の満足や楽しみを求めることに他ならない」と言いました。神が教えてくださった隣人愛を離れた幸福の追求は、ややもすると自分の利益の追求に終わってしまうものです。あるいは、小さな自己満足をささやかな幸せと思ってしまうものです。しかし、そういう自己完結してしまう幸せは、ほんとうの幸せではありません。そして、それは神が人に与えた隣人愛の教えにも反するものです。
人は誰しも、幸福について、幸せについて考える時、自分の幸せ、自分の幸福とは何かということを優先的に考えがちなものです。しかし、聖書が教える幸せは、自分とともに、誰かが幸せになることを求めることなのです。もちろん、わたしたちには全人類の幸福について考えることも実践することも出来ません。また、そんな大きなことが求められているわけでもありません。一人の小さな人間として、神の前に立ち、隣人とともに幸福であることが求められているのです。そして、そのように隣人に仕えること自体を幸せと感じることが、聖書が教える本当の幸せなのではないでしょうか。
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