BOX190 2004年11月10日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「わたしなんて生まれてこない方がよかった?」  ハンドルネーム・プーさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・プーさん、高校生からのご質問です。携帯からのメールでいただきました。お便りをご紹介します。

「はじめまして。わたしは都内の高校に通う女の子です。姉も弟も勉強ができるのに、わたしは今まで何一つ誉めてもらえるようなことがありません。わたしなんて生まれてこない方が良かったと思います。これから先、目標もなく何のために生きたらいいのでしょうか」

 ということなんですが、プーさん、メールありがとうございました。プーさんは高校生と言うことだそうですが、今何年生でしょうか。厳しい受験をくぐり抜けてホッとする間もなく、高校三年間はあっという間に終わってしまいますね。特にまわりが大学受験に向けて勉強熱心な人たちばかりだと、必要以上にプレッシャーを感じて、高校生活を楽しんでいる余裕もないかもしれません。短い三年間なだけに、もっともっと高校生活をエンジョイできるような余裕をもって欲しいなと思いました。

 さて、「わたしなんて生まれてこない方が良かったと思います」ということですが、きっとプーさんは本気でそんな風には考えていないと思います。本気でそう思っているとしたら、メールなんか書いたりはしないでしょう。  むしろプーさんは今、だれよりも自分探しをしているのだと思います。自分が本当にやりたいことがなんなのか、誰かのために何か役に立つようなことは自分にないか、それを探しているのだと思いました。誰でもいいから、その答えを教えて欲しいくらいなのではないでしょうか。メールを下さったのもそういう気持ちの現れと受けとめさせていただきました。
 実は高校生時代にそういうことで悩める時間が持てるというのは、ほんとうはとても素晴らしいことだと思います。「人の気持ちも知らないで、やすやすとそんなこと言わないでよ」って言われてしまうかもしれませんが、でも、お姉さんや弟さんのように勉強が出来ていれば、自分が本当にやりたいことや、誰かのために役に立てることなどについて、真剣に考えたでしょうか。自分が何のために生まれてきたかなんて、普通はあまり考えもせずに、ただ何となく生きているだけのことが多いのです。
 「それなら、他の人と同じように、何も考えこまずに気楽に生きていける方が良かった」といわれるかもしれないですね。確かにそう思う気持ちもわかります。人生、人と同じだからいいと言う面もあるかもしれません。しかし、一人一人が違っているからこそ、お互いに誰かのために役に立てるという面もあるのではないでしょうか。

 さて、結論を先に言ってしまうと、自分探しの答えは、自分で見つけるより他はありません。誰かがあなたに代わって考えてくれるものではありません。他人はあなたにこうなって欲しいという希望はたくさんもっています。特に親は子供に対してそういう期待をいっぱい持っています。でも、それはあなたがほんとうにしたいこと、あなたにできることとは必ずしも一致しません。
 自分探しの答えは誰も代わって答えることは出来ません。しかし、お手伝いはすることができると思います。

 それには、いただいたメールから感じたことを率直にお話したいと思います。きっとこれからを考える上で、ヒントになると思います。
 まず、「わたしなんて生まれてこない方が良かった」と思ったその理由は何でしょうか。メールにはこう書いてありました。
 「姉も弟も勉強ができるのに、わたしは今まで何一つ誉めてもらえるようなことがありません」
 「勉強ができる」というのは、確かに人間を計る評価の基準かもしれません。しかし、それがすべてではないでしょう。自分の評価を「勉強ができる」という基準一つに絞って考えれば、「自分が生まれて来て良かった」と満足できる人はごく一部の人だけになってしまいます。
 そもそも、「勉強ができる」という基準一つに絞って、自分の兄弟と比較してみても、自分発見の役には少しも立ちません。むしろ人間を評価する物差しをたくさん持つことが大切です。
 プーさんは友達のことをみるときに、「勉強ができる」「できない」という基準でしか人をみないのでしょうか。そんなことはありませんね。
 思いやりがあるだろうか。正直で誠実だろうか。ひらめきや発想力があるだろうか。いろいろな基準で人を見ることができれば、自分自身に対する見方も変わってくるはずです。そして、その際に大切なことは、安易にそれを「善い悪い」に結び付けてしまわないことです。人には色々な側面があって、ある面は突出していても、他の面では欠けているということもあります。たとえある面が欠けていたとしても、だからダメな人間だと決め付けないことです。むしろ、その人の突出した面を積極的に評価することが大切です。もし、突出した面が何も見つからないとしても、だから何もとりえのない人間なのではありません。その人はバランスよく色々な面が整えられている人なのです。 
 プーさんからのメールには「わたしは今まで何一つ誉めてもらえるようなことがありません」とありました。ほんとうにそうだとしたら、それはプーさんに原因があるのではなく、むしろ、プーさんのことを評価できなかった周りの人たちにも問題があると思います。
 わたしは職業柄、いろいろな人に出会います。確かに、欠けたところの多い人にも出会いますが、何も誉める点のない人に出会ったことはありません。この世的な評価の基準からすれば、評価されることがないとしても、それでも、人それぞれに輝くものがあるものです。

 さて、そうはいっても、一度他人から植え付けられてしまった自分自身に対するイメージを変えることは、口で言うほど簡単ではありません。しかし、聖書に拠れば、神様は無駄なことをなさるお方ではありません。誰一人として、自分など生まれてこなかった方が良かったと本当に言える人はいないのです。キリスト教では自分を造って下さった神を信じています。その神様を信じることが、結局は自分自身の可能性を信じることに繋がるのだと思います。

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