BOX190 2004年11月3日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「キリスト教を一言で言えば?」  兵庫県  M・Yさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は兵庫県にお住まいのM・Yさん、男性の方からのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。

 「山下先生、こんにちは。いつも番組を楽しみに聴いています。
 わたしはキリスト教に触れてから、もう随分年月が経ちますが、今ひとつ洗礼を受けようというところまで踏み込むことが出来ないでいます。その最大の理由は、結局、キリスト教についてよくわかっていないからだと自分では思っています。あの分厚い聖書や二千年に及ぶ教会の歴史を考えると、そう簡単にわからないのも無理はないと自分で納得しています。しかし、全部わかってから洗礼を受けるとなると、一生クリスチャンにはなれないような気もします。
 一体キリスト教にとって何が一番大切なポイントなのでしょか? せめてそのことだけでも理解できたらと思います。ある人に聞くと、『十字架こそキリスト教の中心的な教えだ』といいます。確かに十字架によって罪が赦されるのはわかりますが、罪を赦されるということがキリスト教の信仰の中心なんでしょうか?
 また、別な人に聞くと『愛こそがキリスト教の中心的な教えだ』との答えが返ってきます。確かに『キリスト教は愛の宗教である』という記述を何かの本で読んだことがあります。愛の実践なら、キリスト教でなくても、人道主義の立場からもそれは実践できるような気がします。
 他にも別な人に聞けば、また別な答えが返ってきます。結局、みんなそれぞれ自分で大切だと思うことを信じていれば、洗礼を受けることができるのでしょうか。
 山下先生なら、キリスト教の教えをどんなふうに一言で表現されるでしょうか。よろしくお願いします。」

 ということなんですが。M・Yさん、メールありがとうございました。キリスト教は一体何を信じ、何を大切にしているのか、クリスチャンとして誰もが答えられないといけない大切な問題ですね。確かにそれがわからなければ、洗礼を受ける意味がありません。
 M・Yさんは、そのことをいつも関心をもってよく考えていらっしゃるのですね。周辺的な枝葉末節の事柄ではなく、いつも中心的な核となることをしっかり捕まえようとしていらっしゃる姿勢を、お便りから窺い知ることができました。
 M・Yさんからの質問を受けて、いろいろなクリスチャンの方たちが、いろいろな答えを出していらっしゃることを知り、興味深く読ませていただきました。
 ただ、M・Yさんがお聞きになった相手の方は、牧師や神学者のように、いつも答えなれている方たちではないでしょうから、突然の質問に十分用意が出来ていたとは思えません。どちらかと言うと、その人その人の今の関心から、答えを出されたのではないかと思われる節もあります。その答えには、突っ込みたくなるような不完全さがあることは否めません。
 結論から先に言えば、たったの一言でキリスト教の教えをまとめることは、どう考えても無謀です。ただ、そうはいっても短い言葉でいくつかのポイントにまとめることはできると思います。
 そのいくつかのポイントというのは、結局は洗礼を受けるときに誓っていただく事柄に尽きると思います。教派によって、誓っていただく内容は多少の違いがあるかもしれません。しかし、最低限の共通した事柄が少なくとも四つあると思います。
 その一つは、この世界は自分自身も含めて造り主である唯一の神によって造られたということを信じているということです。
 これは、キリスト教の教えにとって大前提となる事柄です。はずすことは出来ません。この世界が神がいなくても存在するというのであれば、キリスト教を信じる意味がありません。あるいは、他にも信じるべき神々がいるのだとすれば、それもまたキリスト教を信じる意味がなくなってしまいます。

 二番めのポイントは神の前に自分が罪人であるということです。キリスト教が「救い」といっているのは、この罪からの救いのことです。自分自身の罪を認めないとすれば、キリスト教を必要とする意味も違ったものになってしまいます。

 第三のポイントは、自分自身が陥っている罪からわたしを解放し、救ってくださるのはイエス・キリストだけだということです。  先ほどM・Yさんが紹介してくださった答えの中に「キリストの十字架こそがキリスト教の中心だ」という答えがありましたが、それは、この第三のポイントと関係しています。もし、一と二のポイントを信じていたとしても、三のポイントがなければ別の宗教になってしまいます。自分で罪の問題を解決しようと考える人もいるでしょうし、キリスト以外の救い主を求める人もいるでしょう。しかし、キリスト教を信じるということは、イエス・キリストこそが自分の救い主であることを信じることです。
 さて、今までの三つで既に完結しているようにも思われますが、もう一つ大切な点があります。それは、罪が赦され、罪から解放された者がどう生きるのかという問題です。四番目のポイントは救いの完成の日まで、神の導きに謙虚に信頼しながら、神のみ心に従って歩む生き方を決心することです。
 神の御心は、究極的には神を愛し、人を愛することです。ですから、キリスト教が「愛の宗教だ」といわれるのもあながち間違いではありません。ただ、それがすべてなのではありません。

 この第四のポイントこそ、色々な意味で誤解されがちなのだと思います。ある人たちの受け止めるキリスト教では、最初の三つのポイントだけで終わってしまい、クリスチャンとしてどう生きるのかがありません。キリスト教にとって、もちろん、罪を赦されることも、罪から清められることも大切です。しかし、決してそれがゴールなのではありません。神が人を造ったその目的に従って生きるのでなければ、救われる意味もありません。  また、第四のポイントを救われるための新しい行いと考えてもいけません。むしろ、救われたことに対する応答として、感謝の気持ちから出る行いなのです。
 神はそのように生きるようにと一人一人を招いておられます。この招きに応じようとする時、本当に洗礼を受けたい思いになるのではないでしょうか。どうぞM・Yさんも、いつかふさわしい時にそのような思いが与えられるようにと、神様の導きをお祈りします。

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