BOX190 2004年9月15日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「牧師の説教は神の言葉ですか?」  神奈川県  ハンドルネーム岩さん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム岩さんからのご質問です。eメールでいただきました。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組を興味深く聴いています。きょうは疑問に思うところがあって、メールしました。
 それは説教と聖書の関係、説教と神の言葉の関係です。少し極端な言い方かもしれませんが、牧師の説教は神の言葉として聴くべきなのでしょうか。神の言葉として聞くべきであるとすれば、それは批判することが当然許されないことだと思いますが、そうでないとすればある程度批判的な耳も必要かと思います。
 もちろん、こんなことをメールするのは、自分の教会の牧師の説教に批判的な気持ちがあるからと言うわけではありません。ただ、純粋にどういう態度で耳を傾けるべきなのか、疑問に思ったからです。よろしくお願いします。」

 ということなんですが、岩さん、メールありがとうございました。岩さんの疑問は教会での礼拝を大切にしていればこその疑問ですね。牧師の説教というものは、何もないときには取り立てて問題になるというようなことはありません。同じ説教を聴いていても、聴衆のある人たちからは「良かった」と評価されることもあれば、別の人たちからは「つまらなかった」と批評されることもあります。
 普通の牧師の説教と言うものは、例えて言えば、ちょうどお母さんの作った手料理に似ているかもしれません。毎日がご馳走ではありませんが、しかし、家族の命を支えていくには欠く事が出来ないものです。豪華ではありませんが、毎日食べていても飽きが来ることがありません。
 そういう意味で、毎週礼拝で語られる牧師の説教と言うのは取り立てて「よかった」、「悪かった」と評価されるようなものではありません。ある意味では、それで霊的な養いがちゃんと出来ているのであれば、「よかった」「悪かった」という評価はあまり意味のあるものではないでしょう。
 お母さんの料理に対して子供が好き嫌いを言うのは、大抵は子供のわがままに過ぎないことが多いのに似て、その日その日の牧師の説教が良かった悪かったというのは、聞く側の問題であることもあります。

 さて、普通の牧師の説教をいきなり主婦の日常のお料理に例えて、一体何を言おうとしているのかちょっと捉えにくかったかもしれません。
 私が言いたかったことのポイントは、牧師の説教は母親の料理に似て、それを受け取る者にとっては多少の満足不満足なことがあったとしても、普通は与えられたものをそのままに受け取って味わうと言うことです。あえて料理評論家になって家庭料理の良し悪しを言わないのと同じように、牧師の説教に対して、最初から評論家のような態度で聴く必要はどこにもありません。

ところで、もうちょっと家庭の主婦の料理と牧師の説教とを比べて考えてみると、お料理にも牧師の説教にも素材があります。料理の素材は当然食べることができる食材が材料になります。牧師の説教は神の言葉である聖書が素材になります。食べられない素材を料理に使ったとすれば、それはそもそも料理に価しないのと同じように、神の言葉を使わないで説教をしようとしても、それはそもそも説教とは言いません。そのような牧師はいないとは思いますが、もし、説教を聴く側が注意するとすれば、説教が聖書を素材としているかどうか、そのことに対しては注意深くある必要があると思います。もちろん説教の導入分部に日常的な話題を織り込んだり、例話に他からとった素材を持ってくるということはあるでしょう。しかし、説教全体が聖書と関係のない話題に終始するのであれば、それは説教とは言いません。
 それから、もう一つ料理と比べられるのは、素材をどう調理するかと言う問題があると思います。どんな素材を使っても、結局は醤油味の濃い色で、素材の味も形も色もなくなってしまうようなものを料理と呼べるかどうかという評価があると思います。もし、どんな聖書の個所から説教しても、結局は説教者の色に染まってしまう、説教者の味しかでてこない説教であるとすれば、それは果たして説教と呼べるのかどうか疑問です。説教とは第一に聖書の解き明かしであって、ただ単に聖書を題材にした説教者自身のお話であってはいけません。その点もやはり聴衆は耳を澄まして聴く必要があるところだと思います。

さて、岩さんの最初の疑問に戻りますが、「牧師の説教は神の言葉として聴くべきなのでしょうか」。
 牧師は神そのものではありませんし、神の代理人でもありませんから、牧師の説教そのものは神の言葉なのではありません。先ほども言いましたが、説教とは聖書を素材に、聖書の語ろうとしていることを解き明かすことですから、その意味において、語られる説教に対して耳を傾け従っていく必要があります。しかし、それと同時に、ほんとうにその語られていることが、聖書に基づいているのかどうか、それを吟味する必要があることも忘れてはいけません。
 思い出していただきたいのですが、荒野でイエス・キリストを誘惑したサタンは聖書の言葉を引用して、イエスをそそのかそうとしました。聖書を題材にした話ならサタンでさえもします。聖書を引用しているか、聖書を素材に使っているか、それだけで正しい説教とは言わないのです。  本当にその説教がその聖書の個所の意味を正しく解き明かしているのか注意を払う必要があります。

 最後に2ヵ所だけ聖書から引用したいと思いますが、その一つは使徒言行録8章27節以下に出てくエチオピアの女王カンダケに仕える宦官のエピソードです。彼はイザヤ書を読んでいましたが、その意味を理解することが出来ませんでした。そこでフィリポはこのエチオピアの宦官が読んでいた個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせたと聖書は記しています。この説きあかしこそ説教の原型です。
 もう一つの個所は使徒言行録17章10節以下に出てくるべレアの人たちのことです。そこにいたユダヤ人についてこう記されています。
 「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。」
 彼らは使徒たちの説教が果たして聖書に合致しているかどうか、いっそう熱心に聖書を調べたのです。牧師の説教に対して批判的である必要はありませんが、果たしてその通りかどうか、いつも聖書を調べる熱心さも説教を聴く上で大切なことではないでしょうか。

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