BOX190 2004年9月8日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「救いのプロセスは?」  神奈川県  千葉県 S・Iさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は千葉県にお住まいのS・Iさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組を楽しく聞かせていただいています。きょうは、悔い改めについての質問です、ある雑誌にヤンキースの松井秀喜選手の恩師、山下監督のモットーが掲載されていました。次のような格言です。
 『心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命も変わる』
 というものなんですが、なんとなく、悔い改めてイエス・キリストによりたのむクリスチャンの姿勢を地で行くような感覚でこの山下監督のモットーから感じたのですが、悔い改めて救われるということは、このようなプロセスを経ているのでしょうか。人が心を入れ替えて、古い物を脱ぎ捨て、違った人格となり、救いの道に入れられる(滅ぶべき存在が罪を赦されて永遠の命を得る)ということなのでしょうか。
 聖書に基づいて考えるならば、実際のところ、悔い改めて、救われることをどのように教えていますか。よろしくお願いします。」

 ということなんですが、S・Iさん、お手紙ありがとうございました。S・Iさんは有名人の言葉を聞いて、いろいろと聖書と結びつけて考えたり、ご自分の信仰と比較しながら考えたりすることが得意のようですね。もうずっと前になりますが、前回いただいたお手紙もそうだったように記憶しています。自分とはまったく違った人の言葉を聴いて、自分の考えと対比させながら思い巡らせたり、味わったりすることはとても大切なことだと思います。
 さて、私もこの言葉をきょう目にして、色々なことを思い巡らせました。わたしはキリスト教的な考えに染まっていますので、一番最後の「運命がかわる」という言い方には少し抵抗を感じましたが、そこの分部を「人生が変わる」とすれば、なるほどと思わされます。
 なるほどと思ったのは、特にここに出てくる順番です。どうも、人はこの反対の順番でものを考えてしまいがちなのではないかと思いました。
 運命や人生が変われば、人も変わり、習慣も変わり、行動も変わり、そして最後に心も変わる…こう思い込んでしまうところがあるのではないでしょうか。占いが流行るのも、一番に運命を知って運命を変えたいと思うからでしょう。そこが変われば、習慣も行動も変わり、最終的には心も変わると考えているのでしょうか。あるいは、心の問題はあまり重要ではないと思っているのでしょうか。

 さて、本題に戻って、S・Iさんからのご質問ですが、聖書に基づいて考えるならば、悔い改めて、救われることをどのようなプロセスで教えているのでしょうか。

ここで一曲聞いていただいてから、後半へ行きたいと思います。

 ==放送では、ここで1曲==

さて、前半で、少しだけ心の問題に触れましたが、聖書の教えでは、救いのプロセスにはこの心の問題がとても大切なように思います。人間としては、どうしても、目に見える外面的なものから救いに入りたいと願う気持ちはわからないでもありません。行動や儀式、作法といったものから入っていって救いに到達するというプロセスはとても具体的でわかりやすそうな気がします。
 しかし、聖書が教える人の救いは、これとはかなり違うプロセスのように思えます。
 1番典型的な例が使徒言行録16章14節に記されたフィリピで最初に回心したティアティラ市出身の紫布商人リディアという婦人の場合です。そこにはこう記されています。
 「リディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けた」
 短い記事ですが、そこには重要なポイントが2つ記されています。その1つは「主が彼女の心を開かれた」と言う点です。具体的には聖霊の働きを通してもたらされる心の変化です。もう1つの点は、「パウロの言葉を注意深く聞いた」と言う点です。今流に言えば、聖書の言葉に注意深く耳を傾けたということでしょう。イエス・キリストを信じて洗礼を受ける前に、先ず、聖霊による心の変化が起り、それと同時にその開かれた心で神の言葉に接したと言うことです。これが具体的な救いのプロセスの第一歩と言うことができると思います。どんな人であっても、罪に閉ざされた心では神の言葉に触れて心動かされることはありません。また、どんなに聖霊によって心開かれたといっても、神の言葉を離れて、救いの確信を得ることは出来ないのです。
 ところで、救いのプロセスという言い方は、少し馴染みがない言葉かもしれません。またそのために、キリスト教の救いについての誤解が生じているのかもしれません。誰でもが期待していることは、信じた瞬時に救いのプロセスがすべて終了して、救いが完結すると言うことではないかと思います。
 しかし、聖書が教える救いは、あるプロセスを伴っています。先ほど紹介したリディアの話は、洗礼を受けたところで話が終わっていますから、それですべてが完了したように思われるかもしれません。
 しかし、聖書を注意深く読むと、神によって救いへと召し出された人々が、キリストのゆえに義と宣言され、神の子として受け入れられ、聖なる者へと清められ、やがて栄光の姿へと変えられていく様子が描かれてます。これらのプロセスのうち信仰によって義とされることも、神の子として受け入れられることも、ある意味では信じると同時に起ることですから、プロセスというほどのことでもありませんが、聖なる者とされ、栄光の姿へと変えられるのは、決して信仰をもつと同時に瞬時に与えられる事としては描かれていません。この点に関して、コロサイの信徒の手紙3章9節10節には面白い表現が出てきます。
 「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」
 日本語の翻訳では、そのニュアンスが十分に伝わりませんが、パウロがここで言っていることは、古い人を脱ぎ捨てることも、新しい人を身に着けることも瞬時の出来事として描かれているのですが、しかし、身に着ける新しい人は、造り主のかたちに従って真の知識へと向かって日々新たにされつつある新しい人なのです。つまり、完成品の新しい人を身につけているのではなく、完成へと向かって日々新たにされつつある新しい人を身につけているということなのです。
 そういう意味で、クリスチャンとは聖霊なる神によって心を変えられ、やがて完成する新しい人に向かって成長するその過程にある者ということができるのだと思います。その成長過程を謙虚に受けとめることが、救いのプロセスに大切なのではないでしょうか。

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