BOX190 2004年9月1日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「終末は近いのですか?」  神奈川県  M・Aさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はM・Aさん、女性の方からのご質問です。Eメールでお便りをいただきました。ご紹介します。

 「山下先生、いつも番組を楽しみに聞かせていただいています。先生のお声を聞いているとホッとした気持ちになります。
 さて、さっそく質問なのですが、この何年かのことを振り返ってみると、大地震や戦争のことなど、暗いニュースが絶えないような気がします。そこでふと思い出したのが、マルコ福音書13章に記されたイエス様の預言の言葉です。
 『民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。』
 このイエス様の言葉を読んでいると、今こそ終末の時が近いのではないかと言う気持ちになってきます。果たして、そう考えてしまってよいのでしょうか。少し不安な気持ちになっています。よろしくお願いします。」

 ということなんですが、M・Aさん、メールありがとうございました。ほんとうに21世紀になってからというもの、戦争のニュースが絶えないですね。そして、世界のあちこちで起る大地震のニュースを見ていると、終末が近いとか、世の終わりがそこまで来ているのではないかという不安な気持ちになってしまいますね。確かにM・Aさんがご指摘してくださったように、イエス様はマルコによる福音書の13章で世の終わりについての預言をなさっています。そして、その中には時代のしるしとなるような出来事が記されています。それが、戦争であったり地震であったり、迫害であったり、そういう特徴的な事件や出来事です。まずはこのイエス様のお言葉をどう理解したらよいのか、そのことをきちんと見ておく必要があると思います。それから、果たしてイエス様のおっしゃったことが、わたしたちが生きている今の時代に適用できるのかどうか、言い換えれば今こそがその時なのかどうかということです。そのこともしっかりと検討する必要があるだろうと思います。

 まずはマルコによる福音書の13章に記されたイエス様のお言葉が、どういうきっかけで語りだされたのか、そのことを簡単に見ておきましょう。
 それは、エルサレムにある立派な神殿の建物を見て、その石の大きさに感動した弟子たちの発言がきっかけでした。それに対してイエス様は「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」とお答えになったのですが、この発言に弟子たちがすかさず「そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」と尋ねたことが直接のきっかけでした。
 イエス様の最初の発言も、弟子たちの関心も、それらはエルサレムの神殿の崩壊に関わるものでした。そういう意味では歴史の事実からすれば、紀元70年のユダヤ戦争の時にエルサレムの神殿は崩壊してしまったわけですから、イエス様の発言の大部分は今となっては過去の出来事に属するものです。
 「大部分は」と言ったのは、イエス様は弟子たちの質問以上のことをお答えになっていらっしゃるからです。たとえば、7節には「世の終わり」と言う言葉が出てきています。イエス様は単にエルサレムの神殿崩壊の預言をされているばかりではなく、「世の終わり」というもっと大きなスケールの中で、弟子たちにお話をしていることがわかります。イエス様の発言は、「エルサレムの神殿崩壊」という事件と「世の終わり」という出来事を重なり合っているようにお話をしているので、厳密に2つの出来事を区別することはなかなか難しくなっています。たとえば、26節で「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」という発言は、明らかに終末の時に起る事件です。しかし、6節に記された「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」という発言は、世の終わりの時もそうかもしれませんが、エルサレムの神殿が崩壊する時代にも当てはまるものでした。それは偽メシアが登場した時代でした。
 そんな風に改めてイエス様に言葉を読み返してみるとその言葉のあいまいさに気がつかされます。つまり、イエス様はある意味で意図的にわかりにくくお話になっていらっしゃるのではないかと思われるほどです。弟子たちたちの「いつ起るのか」「どんな徴があるのか」という疑問に、あいまいにしかお答えになっていらっしゃらないのです。
 実際、イエス様は32節で「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」とおっしゃって、結局はご自分もその日をご存知でないことを明らかにしていらっしゃるのです。

 では、何のためにその日の徴のことについて弟子たちにお語りになっているのかというと、まず、開口一番イエス様がおっしゃっているとおり、「人に惑わされないように気をつけ」させるためです。人間と言うのは不安な心理に弱いものです。惑わされないでイエス・キリストにしっかり留まって欲しいからです。イエス・キリストは「気をつけて、目を覚ましていなさい」とおっしゃいます。その日がいつなのか、またどの時間に起るのかわからないからです。
 つまり、イエス様がここで弟子たちに語っていらっしゃることの意図は、今が終末の時かどうか、そのことを判断させるためなのではなりません。カレンダーとにらめっこしながら、「まだ大丈夫だ」とか「そろそろ危ない」とか、そんなことをさせるためにイエス様は弟子たちにお語りになっているのではありません。そうではなく、いつその日が来ても大丈夫なように、十分に備えていることをキリストはわたしたちに望んでいらっしゃるのです。慌てて準備するのでもなく、また、のんびりといつまでも先延ばしにするのでもなく、一日一日が準備の日であることを覚えて生きることが大切です。

 少し余談になりますが、新約聖書が語るところによれば、終わりの時というのは、イエス・キリストが到来したことによって、ある意味で既にスタートしているのです。完成の秒読み段階に入っているといっても間違いではありません。そういう意味では、万物の完成の時、救いの完成の時というのはいつ起っても不思議ではない状態にあるのです。だからこそ、いつも目を覚まして用意している必要があるのです。
 確かに、今の時代はイエス様が語ってくださったような徴が目立つ時代かもしれません。しかし、わたしたちに求められていることは、今がそのときかどうかの判断ではなく、救いの完成の時に向かっていつでも備えが出来ていることなのです。

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