BOX190 2004年8月18日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「何故イエスはバプテスマを?」  N・Aさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はN・Aさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「救い主なる主の御名をほめたたえます。いつも楽しみにBOX190を聞いています。感謝します。ひとつ質問があります。
 イエス様はなぜバプテスマを受けられたのですか。イエス様には罪はないので、悔い改めのバプテスマではないと思います。イエス様はバプテスマのヨハネに『正しいことをすべて行う』とおっしゃっているので、このバプテスマは重要なことのようです。父なる神による人類の救いに、このバプテスマは必ず必要だったのですか。
 レビ記のあがないの日の儀式と比較すると大祭司アロン=バプテスマのヨハネ(大祭司アロンの子孫)、いけにえの傷のないヤギ=罪のないイエス様、罪をヤギの頭に置く=イエス様の受けられたバプテスマのように思われるのですが、いかがですか。よろしくお願いします。」

 ということなんですが、N・Aさん、番組をいつも楽しみに聴いていてくださってありがとうございます。今回は聖書の記事そのものについてのご質問ですが、N・Aさんがいつも注意深く思いを巡らせながら聖書を読んでいらっしゃる様子が目に浮かぶようなご質問でした。
 確かに、新約聖書に四つある福音書のどれもが、イエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたことを記しています。イエス・キリストが洗礼を受けられたことは紛れもない事実といってよいでしょう。しかし、洗礼者ヨハネが授けていた洗礼は「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」でした。もしそうだとすると、イエスも悔い改める必要がある罪人だったのかということになってしまいます。もちろん、聖書はイエス・キリストが罪のないお方であると聖書は述べていますから(ヘブライ4:15、7:26)、イエスには罪の赦しを請うたり悔い改めたりする必要があるはずもありません。では、何故イエス・キリストは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか。この疑問は誰あろう、洗礼者ヨハネ自身がイエス様に問い掛けています。

 「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(マタイ3:14)

 この洗礼者ヨハネの問いかけに対するイエスの答えは、N・Aさんも書いてくださったとおりです。

 「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタイ3:15)

 しかし、これは答えになっているようで、わたしたちの疑問にすっきり答えているわけではありません。とにかくそれが「正しいことだから」というそれだけの理由を述べているだけです。どうしてそれが正しいのか、イエスはその理由を語りません。
 そもそも、マタイ以外のどの福音書も、罪なきイエスが悔い改めの洗礼を受けた場面をさらりと描いています。わたしたちが疑問に思うような疑問を少しも投げかけたりはしません。あたかも「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことだ」と述べたイエス・キリストの言葉をそのまま受け入れているかのようです。
 面白いことに、新約聖書の外典と呼ばれる書物の中に、「ヘブル人の福音書」と言うものがあります。福音書とは名前がついていますが、聖書でも何でもない人間の作品です。その中にやはりイエスの洗礼をめぐる話が出てきます。
 イエスの母と兄弟が「ヨハネが罪の赦しの洗礼を授けているから、われわれもいって彼から洗礼を受けよう」と言ったのに対して、イエスは「わたしが行って彼から洗礼を受けるように、私はどういう罪を犯したのか」と問うています。これこそ、まさに後の時代の人々の疑問をイエスが代弁しているとしか思えない書き方です。後の時代の人々の疑問は、罪のないお方がどうして洗礼者ヨハネの洗礼を受ける必要があるのか、というその点に絞られます。しかし、マタイ福音書でさえ、イエスが罪なきお方であるからと言う理由で、洗礼者ヨハネがイエスに洗礼を受けることを思いとどまらせようとしたのではありません。

 さて、結果から言えば、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼をイエスが受けられたということは、誰の目から見ても、イエスが罪人であることをご自分で受け入れられたと言うことに他なりません。実は、この点こそ、大切なポイントなのだと思います。後にヘブライ人への手紙は大祭司であるイエスのことを「すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」(2:17)と書いています。イエスは罪のないお方でありながら、罪ある人間と同じ立場にたたれたのです。福音書が描くイエス・キリストの救いの御業は、わたしたちの身代わりとなって罪に対する神の刑罰を十字架でお引き受けになったイエスの姿です。それはまさに「彼は罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が成就するためでした。
 イエス・キリストが罪人の側に立ってくださったのは、ただ単に十字架のあの場面だけではありません。言ってみれば、それはヨハネからの洗礼で始まるイエス・キリストの公の生涯の初めから、イエスは罪人の側に立ってくださったということなのです。メシアであるイエス・キリストがそのように生きることが、神のみ心だったのです。イエス・キリストがおっしゃった「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことだ」とは、この神の御心に従って生き、メシアが罪人の側に立つことなのです。
 N・Aさんの理解した言葉で言えば、キリストは旧約聖書に記された贖罪日に登場するいけにえのヤギになることを洗礼者ヨハネの洗礼を受けることで示されたということができるでしょう。ただ、そういう言い方は聖書の中にはありませんので、もう少し別の言い方で言えば、洗礼者ヨハネ自身がイエスのことを語っているとおり、イエスは罪人の側に立つことによって、「世の罪を取り除く小羊」となられたのです。

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