タイトル: 「苦しみの意味は?」 和歌山県 E・Sさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は和歌山県にお住まいのE・Sさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「お忙しい中、番組ありがとうございます。番組の中で『苦しみ』の意味を教えてください。いろいろと苦しみに出会います。イエス様を信じることが難しくなります。でも、その中でしか、わからないこともありますよね。よろしくお願いします。」
ということなんですが、E・Sさん、はじめまして。お便りありがとうございます。
人生の中で出会う苦しみは本当にたくさんあると思います。肉体的な苦しみ、精神的な苦しみ、その両方が同時に襲ってくる苦しみ。自分自身に原因がある苦しみもあれば、自分自身には原因も責任もない苦しみもあります。また突然襲ってくる苦しみもあれば、日に日に増大してくる苦しみもあります。同じようなことが起っても、ある人にはそれが堪えがたい苦しみとなることもあれば、ある人にとってはそれほどでもない苦しみもあります。
しかし、程度の差はあって、苦しみを一度も味わうことなく人生を終える人は、まずいないのではないかと思います。それほどに、人生には苦しみがつきものです。
そうであればこそ、人は苦しみの意味について考えたり、そこから逃れる方法を絶えず考えつづけています。あるいはもはやそんなことを考えることは無駄だと、諦めの境地で生きているという人すらもいることでしょう。
ところで、苦しみの意味について考える時、聖書が語っているある一つのことを大きな前提として心に留めておく必要があると思います。それは、黙示録21章3節4節に記されている事柄です。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
これは世の終わりの、救いの完成のときに実現する光景を描いたものです。結論を言ってしまえば、神の国が完成するときには、苦しみと言うものから完全に解放されて、もはや苦しみを味わったり、苦しみについて思いを巡らすということはなくなってしまいます。逆に言えば、この時が到来するまでは、人間にはどうしても避けることのできない苦しみが襲いかかると言うことです。そういう意味ではキリストを信じさえすれば、どんな苦しみからもたちどころに解放されるという期待を安易に抱くことは禁物です。
もちろん、キリストを信じることからくる心の平安が、様々な苦しみからわたしたちを解き放つと言うことは真実です。信仰によって苦しみから開放されると言う場合には、そちらの方が大きいでしょう。しかし、苦しみの原因そのものがなくなってしまったり、現実に苦しい目にこれからは遭わなくなるという期待を抱くべきではありません。
特に聖書は、この世の人が誰でも遭遇する苦しみに加えて、クリスチャンであるがゆえに受ける様々な苦しみについても語っています。この世はクリスチャンに対して敬意を表することもありますが、その反対に、クリスチャンであると言うただそれだけの理由で、理不尽な差別や中傷、ときには危害さえも加えることがあるのです。
けれども、そのような苦しみの中にあってもなお、神の恵みの力に支えられながら、神の約束の言葉を信じつづけるのがクリスチャンの生き方であると思います。
さて、随分と前置きが長くなってしまいましたが、苦しみの意味について、聖書がどう語っているのか、見ててみたいと思います。もちろん、苦しみと一言でいっても、先ほども触れたように、様々の苦しみがあるわけですから、苦しみにただ一つの意味があるというわけではありません。
まず、一番わかりやすいのは、罰としての苦しみを神がお与えになる場合です。もちろん、聖書の神は理不尽な罰を与えるお方ではありませんから、それ相応の原因が人間の側にある場合に、罰として人間に苦しみをお与えになることがあります。たとえば、モーセがイスラエルの人々を荒野の中、約束の土地カナンまで導いた時、イスラエルの民はしばしば、神に対する不満の声を上げました。それに対して、神はすかさず罰をお与えになったという記事が旧約聖書の中には見られます。その場合に加えられる苦しみは、明らかにイスラエルの民の罪を指摘し、悔い改めさせて、正しい道に立ち返らせるという意味がこめられています。
荒野を旅するイスラエルの民に加えられた苦しみは、文字通りの苦しみでしたが、人が罪を犯したために味わう苦しみは、もっと内面的なものであることもあります。
例えば、旧約聖書詩編32編の中の中でダビデは良心の呵責とも言うべき苦しみをこう表現しています。
「わたしは黙し続けて 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。(神の)御手は昼も夜もわたしの上に重く わたしの力は 夏の日照りにあって衰え果てました」
それで、ダビデは良心の呵責に堪えかねて、「主にわたしの背きを告白しよう」と決心します。このような苦しみもまた人を神へと向かわせ、悔い改めへと導くための苦しみと言うことができるでしょう。
しかし、わたしたちがこの世で経験する苦しみには、直接本人の落ち度によるものではないものもあることを知っています。その中のあるものは明らかに他人の落ち度によるものや、場合によっては他人の罪の結果から来るものもあります。あるいは、特定の誰かに原因があるのではなく、罪深い人間が構成している社会全体のひずみから来ている苦しみもあります。そのような苦しみは、当然罰としての意味もなければ、それによって悔い改めを促すような目的があるわけでもありません。こうした苦しみの中のあるものは、結果として、それを契機に人間自身が人間を見直したり、社会全体を考えなおすきっかけを与える場合もあることでしょう。しかし、その一つ一つに必ず積極的な目的があるとは考えない方が良いでしょう。あるいは積極的な目的があるとしても、直ちにすべてが明らかにされていない場合もあるのです。たとえば、創世記に登場するヨセフは、兄たちの陰謀によってエジプトに売り飛ばされてしまいます。ヨセフにとっては兄たちの罪深さによってもたらされた災難以外の何ものでもありません。いくらその苦しみの意味を考えてもわかるはずがありません。しかし、ずっと後になってから、神がなぜヨセフをエジプトに連れて行ったのかが明らかにされます。このような場合、苦しみの意味はその当座はまったく隠されていて、人間にはわからないのです。
ただ、聖書の中にはこんな言葉もあることを忘れてはいけないと思います。それは詩編119編72節に記されている言葉です。
苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」(口語訳)
苦しみそのものに意味があるというのではなく、それを通して大切なことを学んだり、信仰者としての大切な訓練を受けるという場合もあるのです。そのような苦しみを聖書は「鍛錬」(ヘブライ12:1-13)と呼んだり「試練」(ヤコブ1:12)と呼んだりしています。それによって神の子として鍛え上げられ練り上げられていくのです。