タイトル: 「子供に宗教教育をするのは?」 ハンドルネーム・迷える母さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム、迷える母さん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも『なるほど』と思いながら番組を楽しく聴いています。
早速ですが、わたしの悩みを聞いていただきたいと思い、メールしました。それは子供たちの教育の問題です。教育といっても、いわゆるどこどこの有名校に子供を通わせたいとか、そういう問題ではありません。宗教教育についての悩みです。
わたしは学生のころ友達に導かれてクリスチャンになりました。ミッションスクールに通っていたと言うこともあり、キリスト教にはそれほど抵抗なく入ることができました。学生時代の頃から、結婚するならクリスチャンと結婚したいと願っていましたが、その夢は叶わず、ノンクリスチャンの夫と結婚し、今は二人の子どもに恵まれて暮らしています。幸い夫は理解のある人なのでわたしが子供たちを連れて教会に行くことに何一つ文句をいったこともありません。
しかし、子供も小学校の高学年になると、何かと友達づきあいもあって、教会から足が遠のきがちになってしまっています。わたしは、多少強引にも子供を教会にひっぱって行きますが、あまり行きたがらない子供の様子を見かねて、夫は『嫌がる子を無理に連れて行くこともないのではないか』といいます。ほんとに大切なものだったら、子供もいつかきっと戻ってくるから、というのです。確かに、ノンクリスチャンの家庭で育ったわたしでさえ、信仰を持つようになったのですから、そんなに頑張らなくてもいいのかな、と言う気持ちにもなってしまいます。でも、やっぱりこのまま放っておいてはいけないと思い、悩んでいます。
山下先生、何か言いアドバイスがあったら教えてください。」
ということなんですが、迷える母さん、メールありがとうございました。家族の中でひとりクリスチャンとして頑張っていらっしゃるんですね。特に子供たちのこととなると、自分のこと以上にいろいろと心配してしまうんでしょうね。
短いメールですので、詳しい状況はよくわかりませんが、お便りを読んでいて、どうして一人で悩んでいるのかなぁという率直な感想を抱きました。だからこうしてメールを下さったということなのでしょうが、しかし、こういう問題は同じ教会の同じ境遇の人と励ましあいながら一歩一歩歩んでいくのが一番だと思います。あるいは、もうすでに、そうしていらっしゃるのかもしれませんね。もちろん、そのことで教会牧師先生にも相談されたりしていらっしゃってのことだと思います。それでも、解決の手がかりが見えず、どうしていったらよいのか、迷っていらっしゃるのだと受けとめました。
逆説的ですが、そうして真剣に悩んでいるところが、大切なのだと思います。
さて、ここで一曲聞いていただきたいてから、後半へ行きたいと思います。
==放送では、ここで1曲==
家族の中で、母親一人がクリスチャンで、子供の手を引いて教会に通っていらっしゃる方、日本の教会には良く見かける姿だと思います。そして、子供がだんだんと成長していくにつれて、きょうご質問いただいたような状況に直面して悩んだり迷ったりしているお母さんがたは教会に多いような気がします。夫婦揃ってクリスチャンならば、そういう問題は起らないかというと、そんなことはありません。ただ、夫婦の信仰が一致しているので、まったく一人で子供の信仰教育の悩みを抱え込むと言うことはないかもしれません。しかし、キリスト教や宗教と言うものからほど遠い日本の社会で、子供にどうやってしっかりとした信仰を受け継がせるかと言うのはクリスチャンの夫婦にとっても悩み多い問題です。それ以上に、クリスチャンの家庭に育った子供たち自身も、友達同士の付き合いの中で、いろいろと軋轢を感じているのだと思います。
さて、まず初めにはっきりとさせておきたいことは、この世に起ることは、時として何が本質の問題なのかと言うことを見誤らせてしまうことが多いということです。
ちょっと抽象的な言葉で何が言いたいのかわかりにくいと思いますが、具体的にはこういうことです。
一方では、放っておいても子供はいつか信仰をもつようになるという事実があるかも知れません。現に「迷える母」さんも、そしてわたしもそうですが、クリスチャンの親に育てられて信仰をもったわけではありません。それぞれ、自分で判断できるようになったときに、自分の意思で信仰をもったわけですね。その事実から考えると、子供に無理強いしなくても、本当に大切なものなら必ず戻ってくるとおっしゃるご主人の意見もあながち間違えとはいえないかもしれません。それに、信仰をもつということは、わたしたちがどうこうしたからといって、どうにもできない部分があることも確かです。信者の子を教育しても必ずしもクリスチャンにならないという悲しい現実があることも事実です。
けれども、ここで大切なことは、わたしたち親が、子供にどうあって欲しいかという信念をしっかり持っておくということです。確かに、信仰を受け継がせると言うことはわたしたち人間の思いをはるかに超えた問題であることは確かです。しかし、だから人間はたとい自分の子供であっても、どんな願いも持ってはならないというのは間違っています。子供に信仰を受け継がせること、それが失敗するか成功するかの問題ではなく、どうすることが理想なのか、その理想を失わないことが大切なのだと思います。
聖書は幼い子供に神のこと、また、神を信じる生き方についてしっかりと教えるように、いろいろなところで命じています。たとえば、申命記6章6節以下には、神の与える戒めについてこう記されています。
「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」
そういう意味では宗教的に放任主義であるというのは、聖書的には正しい態度とはいえません。
けれども、キリスト教信仰を子供にも継承させるためには、妥協を赦さない無理強いだけが正しい方法かというとそうではありません。聖書は先ほど引用した個所にも書いてあるとおり、繰り返し子供たちに神の戒めを教え、語り聞かせるように命じていますが、無理強いするようにとは書かれていません。
どうやって、子供たちの成長に合わせて教えていくのか、当然工夫が大切です。それは個々人に任せておけばよい問題ではなく、教会を挙げて取り組まなければならない問題だと思います。
ただ、繰り返しになりますが、放っておけば自然と育つという考えではなく、しっかりとした理想を描いていること、その理想の実現に向かって真剣に取り組む姿勢、それらのことが一番大切なのではないでしょうか。