タイトル: 「教会共同体の適切な規模は?」 ハンドルネーム・りっちゃん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・りっちゃんさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、こんばんは。きょうは、教会共同体の適切な規模があるのかが知りたくて、メールしました。人数で言うと、どの位になりますか。私が知っている最大は、約一万人、最小は約百人ですが、20人位の教会もあるとか…。また、私は、無職で、且つ病気なので、小規模な教会では、迷惑ばかりかけてしまうのでは?と考えてしまいます。そういうことはありますか。献金も、奉仕も、礼拝も、何一つ、まともにできないのに、教会に受け入れてもらえるのでしょうか。
二つの質問になりましたが、切実な問題なので、よろしくお願いします。」
りっちゃんさん、メールありがとうございました。いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。
さて、今回は二つのご質問をいただきました。適切な教会の規模の問題、それからもう一つは小規模な教会で自分が受け入れてもらえるかどうかという質問ですね。
きっとりっちゃんさんの中ではこの二つの問題は相互に関係している問題だと思います。前半の質問だけを聞くと何を知りたいのか、ご質問の意図が見えにくいのですが、後半の質問とあわせて考えると、りっちゃんさんがどうして教会の適切な規模のことを気にしていらっしゃるの何となくわかるような気がします。
先ず初めに教会共同体の適切な規模ですが、一概に答えることはできないような気がします。おそらくりっちゃんさんが期待している答えは、ご自分が行くとしたら、どれくらいの規模の教会なら安心して集うことができるのかという答えではないかと思います。しかしそれにしても、何人の規模だから大丈夫というようなことは一概に言えないと思います。
教会の活動を最低限維持するための人数といっても、集まってくる人たちの賜物や経済力、年齢構成などによって、少ない人数でやっていける教会もあるでしょうし、多くの人数を必要とする教会もあるでしょう。また、その教会が持っているビジョンによっても必要とされる人数もある程度決まってきます。従って適切な規模はその教会のビジョンにもよるところが大きいと思います。
確かに一般的に言えば、教会員の人数が多ければ多いほど一人あたりの負担は軽くなるかもしれません。しかし、人数が多くなれば、その群れを牧する牧師の能力が大きく左右してきます。当然、一人の牧師で牧会することができる群れの大きさと言うのは、おのずと限界があります。そうした場合、群れを株分けして新しい教会を建てて、人数を一定数に押さえる教会もあれば、教会員の人数をそのままにして、副牧師などを置いて牧師の方の数を増やす教会もあるでしょう。その場合には二つの教会の規模は変わってしまいますが、しかし、どちらも適切な規模と言うことができると思います。
もっとも、ここでいくら理想的な規模について論じたとしても、わたしたちが実際に集うのは現実の教会です。ちなみに日本の平均的な教会の大きさは、プロテスタント教会に限って言えば、信徒の総数61万7千53人を全教会数7千2百15で割ると、一教会当たり約86名と言うことになります。もっとも、この中には名前だけの会員も含まれているでしょうから、実際に教会の力を知るためには礼拝に集まる人の数で計らなければならないかもしれません。そうすると一教会あたりの平均礼拝出席者の数はおよそ25名ですから、これが日本の平均的な教会の実力と言うことができるかもしれません。もっともこれは単純にキリスト教年鑑の統計によったものですから、統計の取り方によっては多少の前後があるかもしれません。それにあくまでも平均値ですから、現実の教会はこれよりも多かったり、少なかったりもします。過疎地の教会へ行けば数名と言う集会を守っているところもあります。もちろん、その中で牧師も信徒も活き活きと過ごしているわけですから、これが適切な規模ではないと誰も一概に言うことは出来ません。
さて、もう一つの質問の答えに移る前に、ここで一曲聞いていただきたいと思います。
==放送では、ここで1曲==
さて、もうひとつのご質問ですが、「私は、無職で、且つ病気なので、小規模な教会では、迷惑ばかりかけてしまうのでは?と考えてしまいます。そういうことはありますか。献金も、奉仕も、礼拝も、何一つ、まともにできないのに、教会に受け入れてもらえるのでしょうか。」ということですね。確かに、何も出来ないと言うことを引け目に感じ、肩身の狭い思いをするということがあるのかもしれません。
しかし、そもそも「献金も、奉仕も、礼拝も、何一つ、まともにできないのに」というこの発想がなんかさびしい思いがしました。誰でも、教会とのかかわりと言うのは、きょう明日の問題ではないはずです。クリスチャンになってから普通は一生涯かかわりをもつはずです。こういう長い目でクリスチャンとしての一生涯を考えてみた時に、献金も奉仕も礼拝への出席もすべてがバランスよくできるというのは、限られた時期のことです。そもそも健康を損ねてしまえば、奉仕をしたり、規則正しく礼拝を守ることは困難になってしまいます。自分に独立した収入があるのも、人によっては限られた時期のことである場合もあります。そういう人にとっては献金ができないと言う時期があることも仕方ありません。では、そういう人が教会に来る資格がないのかというと、そんなことは決してありません。
もし、りっちゃんさんに仕事があり、健康も整えられて教会へ行くようになったとしたら、仕事がなく病気の人のことを「献金も、奉仕も、礼拝も、何一つ、まともにできないのに迷惑だ」という目で見るのでしょうか。そんなことは決してないですよね。クリスチャン同志、お互いに弱さを担い合い、支えあって行こうとするのではありませんか。
パウロはコリントの信徒への手紙一の12章で教会を体に譬えてこう言っています。
「目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。…神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。」
各部分が互いに配慮しあってこそ、教会らしい教会へと成長することができるのではないでしょうか。そういう意味で、強い人だけが教会に招かれているのではなく、弱いと思う人も必要とされて招かれているのです。