BOX190 2004年6月30日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「イエス・キリストは神ですか?」  ハンドルネーム・漣さん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム漣さんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも楽しい番組をありがとうございます。きょうは是非とも聞いてみたい質問があってメールしました。
 実は先日、みんなで聖書を輪読していたのですが、たまたま一人の持っていた聖書が、他のみんなと違う訳の聖書だったのです。そのお陰で、とても大きな発見をしてしまいました。これは是非、山下先生の番組に聞いてみようとメールを書いている次第です。
 その発見と言うのは、ローマの信徒への手紙9章5節の訳の問題です。わたしが使っている聖書は新共同訳なので、その部分は明らかに『キリストは神である』というような訳になっています。ところが、その聖書輪読のときにその方が持っていた聖書では、『神はほめたたえられるべきかな』と言うような訳になっていて、『キリストが神である』とは書いてないのです。これは一体どういうことなのでしょうか。写本の違いから来るものなのでしょうか。それとも、ギリシャ語の解釈の違いから来るものなのでしょうか。
 それから、これがきっかけで、ふと思ったのですが、聖書の中で、『イエス・キリストが神である』と明確に語っている個所というのはどれぐらいあるものなのでしょうか? 今までそれが当然と思っていましたので、調べたこともありませんでした。この点も含めて教えていただければ嬉しく思います。」

 ということなんですが、蓮さん、メールありがとうございました。たまたまの発見とはいえ、とてもいい点に気がつかれたと思います。たかが翻訳の違いとやり過ごしてしまわないで、色々と発展して考えてくださったことが、素晴らしいと思いました。
 おそらく、その方が持っていた聖書は、口語訳の聖書ではないかと思います。せっかくですから、放送をお聞きの方のために口語訳と新共同訳の違いを読み比べて見ましょう。
 先ずは、口語訳からです。
 「また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。」

 続いて新共同訳です。
 「先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」

 結論から先に言ってしまうと、これは写本の違いによるのではなく、どこに句読点を打って読むか、解釈の違いによると言うことです。そして、このことは蓮さんがふと疑問に思われた通り、キリストの神性…キリストは神かどうかということと関わる深い問題です。

 ==放送では、ここで1曲==

 今週はハンドルネーム蓮さんから寄せられた質問を取り上げています。それはローマの信徒への手紙9章5節に関わる問題です。
 前半でもお話した通り、口語訳聖書と新共同訳聖書の翻訳の違いは、翻訳のもとになる写本をどれにしたのか、という問題なのではありません。同じテキストをどの点で句読点を打って解釈するのかの違いによるものです。もともとのギリシャ語聖書の写本には句読点は打ってありませんから、読む人がそれを考えながら読む必要があります。考えながら読むといっても、ほとんどの場合、間違いなく読むことができるのですが、ごくたまに、どっちにも解釈できる場合が出てきます。日本語でも、たとえば「ここではきものをぬいでください」という文章は、句読点の打ちかたで、「ここで、履物を脱いでください」と読むことが出来ますし、「ここでは、着物を脱いでください」とも読めます。もっとも、読めますといっても、それが語られている文脈から推察して、着物を脱ぐのか履物を脱ぐのか、大体は理解できるものです。
 それと同じように、ローマの信徒への手紙9章5節の場合はどうかというと、実は文脈だけでは決定できない部分があります。ここでは、イスラエル人の優れた点をパウロは列挙しています。その最後にキリストもまたイスラエルから出たことを挙げて、パウロは神をほめたたえているとも理解できます。口語訳聖書はそう理解しました。しかしまた新共同訳聖書のように、肉によればキリストはイスラエルの出身ですが、ただの人間なのではなく、そのキリストは同時に神であるということを言おうとしているようにもとれます。
 ただ、文章の自然な流れから言うと、口語訳の句読点の打ちかたと翻訳の仕方には多少無理も感じられます。ここから先の話は、ギリシャ語の話になってしまいますが、もし、口語訳のようにとるとすれば、「神はほむべきかな」というときの決まりきったギリシャ語の語順が、他でのパウロの書き方とは明らかに違っています。むしろ、ここでの語順と文書の構成は第二コリント11章31節とよく似ています。
 もっとも、口語訳の理解が不自然とは言え、ありえない解釈ではありません。例えば、口語訳と同じ翻訳を採用しているのは、アメリカの改定訳(RSV)がそうです。

 では、蓮さんが疑問を抱かれたように、そもそも新約聖書の中に、イエス・キリストが神であることをはっきりと述べている個所はどれくらいあるのでしょうか。
 実はそれはそんなにたくさんあるわけではありません。一番はっきりしているのはヨハネの第一の手紙5章20節です。その他の個所は、ローマの信徒への手紙9章5節と同じように、解釈の違いで、別な受けとめ方も出来ると言うような個所ばかりです。
 ただ、キリストが神の性質を持ったお方であるということは、パウロが書いたフィリピの信徒への手紙2章6節に明らかですから、ローマの信徒への手紙の翻訳を新共同訳のように「キリストは神である」という主旨に翻訳したとしても、まるっきり強引な翻訳だとはいえません。むしろ、口語訳の方がギリシャ語の文書として無理があるのではないでしょうか。

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