BOX190 2004年6月23日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「宗教は結局皆同じなのでは?」  ともさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームともさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「突然のメールで失礼いたします。わたしは何年も前にプロテスタントの教会で洗礼を受けたクリスチャンです。わたしが所属している教派はとても固いというのでしょうか、他の宗教はもちろんのこと、他のキリスト教の教派のことさえも、否定的に教えられます。
 自分たちの教えが正しいと思う気持ちはわかりますが、他は全部間違っているという排他的な態度でいいものなのでしょうか。
 わたしは宗教と言うものは、結局、皆同じだと素朴に思っています。もちろん、わたしはキリスト教の神以外にも神がいると言っているわけではありません。聖書の神様だけが真の神様だと信じています。ただ、いろいろな宗教が存在するのは、同じ真の神様が、形や姿を変えて、まだキリスト教が伝わっていない場所に現れたのだと思っています。ですから、他の宗教はキリスト教の仮の姿だとも言えるわけで、未開の場所ではそれなりの存在の意義があると思っています。
 果たして、このように他宗教のことを考えるのは間違っているのでしょうか。宗教同士が争い憎しみあっているのを見ると悲しく思い、こんな風に考えてしまいました。先生のお考えをぜひお聞かせてください。」

 ということなんですが、ともさん、メールありがとうございました。ともさんの疑問の出発点がどこにあるのか、そのことは痛いほどよくわかります。宗教を信じるもの同士が、その教えの正当性や教えの勢力を争っていがみ合っている姿は、傍から見ていてとても見苦しく思えます。また、そのことがつまずきとなって、宗教なんて信じるに価しないとなってしまうのは、とても残念なことです。もっとも、そういう素朴な感性は、「和を以って貴しとなす」日本人の感性なのかもしれません。わたしも日本人なので、議論や争いよりも、すぐ和を求めてしまいたくなってしまいます。
 他方、ともさんの属しておられる教派のように、自分たちこそ正しいと思う信念も宗教には大切な要素だと思っています。「自分たちの教えが正しいのかどうかも分からないけれど、とにかく信じてください」という宗教はないだろうと思います。どんな宗教にも自分たちの存在の意義についての強い確信があるはずです。特にキリスト教会の教派が分かれてくる過程には、聖書を解釈するに当たっての熱い戦いがあったわけですから、余計に自分たちの教派に対する自尊心も高いのだと思います。
 ただ、自分たちの教えに対してどれほど忠実で熱心であったとしても、他者に対する寛容な態度というものはまた別の問題だろうと思います。聖書をめぐってどんなに熱い議論があったとしても、自分たちの教えに従わない集団を実力行使でねじ伏せるということはあってはならないことだと思っています。
 もし、ともさんのご質問が「宗教的な寛容」と言うことについてであれば、ともさんの考えに共感するところが多いのですが、しかし、ともさんが導き出した新たな教えには同意できない部分が多々あります。

 ==放送では、ここで1曲==

 さて、ともさんが考えた他宗教についての教えについて、検討してみたいと思います。ともさんによれば「いろいろな宗教が存在するのは、同じ真の神様が、形や姿を変えて、まだキリスト教が伝わっていない場所に現れたのだ」ということですね。もし、それが本当だとすれば、他宗教は排除すべきものではなく、むしろルーツが一緒なのだからお互いに尊重すべきと言うことになるのでしょうか。
 しかし、その説明はちょっと考えただけでも腑に落ちない点がたくさんあります。もし、様々な宗教が存在する理由が、「唯一真の神がご自分を知らしめるため」であったとするなら、なぜ色々な宗教に形を変える必要があったのでしょうか。多神教の世界ならいざ知らず、唯一の真の神がそんなに複雑な仕方でご自分を示されたとは素朴に考えただけでも納得できません。それとも、神は別々な姿で理解されることをあえて望んでおられたのでしょうか。また、キリスト教が伝わるまでどうして他の宗教でなければならなかったのかという点も腑に落ちません。キリスト教を受け入れやすくするための素地作りというのなら、もっとキリスト教に似た宗教にすればよかったのではないかと思いたくなってしまいます。
 そのようにちょっと考えただけでも、腑に落ちない点が次々と出てきてしまいます。
 むしろ、キリスト教にとって、他の宗教の存在というものは、こんな風に説明できるのではないでしょうか。
 それは、神は人をご自分に向けて造られたということ、つまり、宗教心を持つ存在として人間を造られたということです。従って、本来ならば、人間は誰でも創造主である神のもとへと真っ直ぐに心が向かうはずですから、たくさんの宗教が存在するはずもなかったのです。
 しかし、聖書が記しているとおり、人間は罪を犯したために堕落してしまいました。神から受けた光を真っ直ぐ反射することが出来た宗教心も、堕落の結果歪んでしまったのです。宗教心そのものが失われてしまったのならば、どんな宗教も生まれては来なかったでしょう。しかし、宗教心そのものは誰にでもあるのですが、その心が罪の影響で歪んでしまっているために、正しく神を映し出すことが出来なくなってしまっているのです。それで、自分の歪んだ宗教心に感じるままに宗教を表現すれば、おのずとたくさんの宗教が生まれてきてしまうのです。これが、キリスト教から見たほかの宗教の姿なのです。当然、もともとは一つの同じ宗教心から出て来ているわけですから、多くの宗教には共通する部分も多々あります。しかし、それらは罪によって歪んだ宗教心から生まれでているわけですから、決して本当の宗教なのではありません。

 もちろん、こうした説明はキリスト教的なものの見方ですから、他の宗教の人たちがこの話を納得するはずがないことは当然だと思っています。無理やりねじ伏せて説得しようとも思いません。そういう意味で、他の宗教の人たちが、それぞれの宗教を見る見方があったとしても、お互いに寛容な思いですごしたいと思います。しかし、寛容であることと妥協することとは違うと思いますので、あえて自分の考えを相手に合わせようとは思いません。そして、このような態度は決して非寛容的な態度として非難されるべきものでもないではないでしょうか。

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