BOX190 2004年6月16日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「牧師になるには?」  ハンドルネーム・大さん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それではさっそくきょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム大さん、男性の方からのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。

 「山下先生、はじめまして。いつもBOX190の番組を楽しみにしています。
 さて、早速ですが、わたしの質問というよりは相談といった方がいいかもしれませんが、ぜひ教えていただければと思います。
 それは、牧師になるためにはどうしたらよいかと言うことです。抽象的な質問で答えに困ってしまうかもしれませんが、わたしは今、牧師になることを真面目に考えています。社会に出て、改めて自分の仕事についていろいろと考えるところがあり、今頃になって牧師も仕事の選択肢の一つだったのではないかと思うようになりました。もっと早くにそう思うべきだったのかもしれません。確かに30を過ぎてからの決断は、いろいろとしり込みしたくなるようなことも正直言ってあります。しかし、今はだんだんと牧師になりたいとの思いが勝ってきています。
 もちろん、こういう相談は自分の教会の牧師にすべきことはわかっています。しかし、動機が不純かもしれませんが、自分が牧師になりたいと思うようになった動機の一つは、自分の教会の牧師に対する不満からです。しかし不満を抱いてぐじぐじと不平を言っているよりは、自分が牧師となって理想の教会を建ててみるのも一つのチャレンジではないかと思ったのです。
 ただ、そんな意気込みだけで牧師になれるはずもなく、いったいどうすべきなのかご相談のメールを出した次第です。先生のアドバイス、よろしくお願いします。」

 ということなんですが、大さん、メールありがとうございました。今回のご質問、番組で取り上げた方がいいのかどうか、ちょっと戸惑いました。というのは、この相談を取り上げることが、どれだけ番組を聴いている他の人のお役に立てるのだろうかという思いがふとよぎったからです。牧師のわたしがこんなことを言っては不信仰かもしれませんが、牧師になりたい人の数はそんなには多くないだろうと思うからです。少なくとも、番組を聴いてクリスチャンになりたいと思う人の数よりも少ないことは間違いないでしょう。
 しかし、このあすへの窓の番組を聴いて牧師になった人が過去に何人かいることを思うと、たとい少ない人数のためにでも取り上げてみるのも価値があるような気がして来ました。
 たしかに、大さんがご自分でおっしゃているように、大さんが牧師になりたいと思う動機にはネガティブな面があるかもしれません。しかし、動機やきっかけがどうであれ、このことが神様からの召しであるとすれば、やはり真剣に神様からの召しに応じていただきたいと願います。

 それではここで一曲聞いていただきたいてから、後半へ行きたいと思います。

 ==放送では、ここで1曲==

 さて、「牧師になるには」というご質問を取り上げています。この質問に答えるのには、教派によっていろいろとい違った手続きがあるかもしれません。しかし、細かい手続きの話は後でするとして、もっとも大切な点を先ずお話したいと思います。
 それはどんな職業でもそうだと思いますが、牧師と言う職業は特にこの仕事に就こうとする明確な意識が大切です。教会の用語で、そういう意識のことを「召命感」と呼んでいます。自分が神から召されてこの仕事に就くのだという明確な意識です。もしこれがなければ、牧師としてその務めを続けていくことは出来ません。
 大さんの場合、自分の教会に対する反感がきっかけで、自分が働き人となってもっと教会をよくしようと思う積極的な気持ちがあることはよくわかります。しかし、それだけでは一生涯、牧師の働きを続けることは困難でしょう。その気持ちには教会を自分のものと勘違いしてしまう危険もでてくるかもしれません。召命感がはっきりしていないと、自分が誰に召され、誰に対して責任を果たそうとしているのか、道に迷ってしまう危険があります。
 さて、召命感と言うのは、ある意味、主観的なものです。本人が神様の召しを感じれば、その主観的な召命感を否定することは出来ません。しかし、本人が自分が牧師として召されていると思えば、誰でも牧師になれるのかと言うと、決してそうではありません。
 本当にその人が牧師という働きのために神様から召された人かどうか、客観的な判断が必要になってきます。ここから先の話は、教派によってその基準がいろいろ違ってくるところです。
 しかし、大雑把に言って、信仰的な健全さ、聖書に対する正しい知識、そして、人間としての良識、肉体的な健康状態、こういったものが判断の基準になるのではないかと思います。これらの中で、聖書にたいする正しい知識は、試験を課することで判断することができるでしょう。ちなみに、わたしの所属する教派では、牧師になるための試験として全部で6科目の試験が課せられます。
 信仰的な健全さや人間としての良識は面接や普段の生活を見ていればおよその見当はつくものです。
 さて、学科試験に関しては、それを教える神学校で学ぶしかありません。あるいはそれに代わる方法で学ぶ必要があります。何をどの程度学ぶのかは、教派によって違いますから、そこはご自分の教派のことを調べてみてください。
 信仰的な健全さに関して言えば、それは教会によって養われるものです。教会での礼拝、様々な活動、そういったものに忠実に与るべきことは言うまでもないことです。そういう中で育てられた信仰的な健全さがなければ、牧師としてた立つことは難しいでしょう。
 大さんはこれから神学校で学び、教会での訓練もますます受けることになると思いますが、本当に神様から召された人であるならば、必ず難関を乗り越えて牧師になれると確信しています。今与えられているその召命感を大切に暖めて、是非、神様からの召しに応えて欲しいと願います。

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