BOX190 2004年6月9日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「宗教は必要ですか?」  ハンドルネーム・よしさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームよしさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、はじめまして。いつも楽しく番組を聞かせていただいています。
 さて、さっそくですが、質問してみたいと思うことがありメールさせていただきました。これはわたし自身の疑問というよりは、わたしがノンクリスチャンの人から聞かれてうまく答えられずに困っている問題です。
 それは、『どうして宗教を信じる必要があるのですか』という質問です。『宗教なんて信じなくても生きていけるのでは』と言われてしまうと、どう答えてよいのか分からなくなってしまいます。
 山下先生ならどうお答えになるのか知りたいと思い、メールしました。よろしくお願いします。」

 ということなんですが、よしさん、はじめまして。メールありがとうございました。
 お便りから察するところ、よしさんは神様の存在を信じるクリスチャンの方ですね。そして、日常会話の中で、宗教の話題が出てくるときに、うまく答えることが出来ずに困ってしまうこと、よくありますね。。
 わたしたちクリスチャンにとっては当たり前のことでも、それを他の人に理解してもらおうとする時に、なかなかすんなりとは分かってもらえるものではありません。これは宗教の問題に限らず、どんな問題でも言えることではないかと思います。普段の生活の中に溶け込んでいないものほど、理解するのは難しいものです。わたしは数学は不得意でしたが、高校生時代までは嫌々ながらも授業を受けていましたので、それなりに理解できていたつもりです。しかし、それ以降、足し算、引き算、割り算、掛け算ぐらいしか数学とは縁の無い生活をして来ましたので、高度な数学の話をいきなりされても、とてもついてはいけません。
 宗教と数学とは全然違うものなので、同じには論ずることは出来ませんが、しかし、ある意味からすれば、平均的な日本人のほとんどは宗教についてちゃんとお話を受けとめる事ができるだけの知性と感性を失っているのだと思います。キリスト教に限らず、どんな宗教のことに関しても話が出来なくなるほどに、宗教に対しての感覚と教養が薄れてしまったのは残念な気がします。
 もちろん、こんなことを言ってしまうと、特定の宗教を信じない人たちからお叱りを受けてしまうかもしれません。特定の宗教を信じないで生きると言うことを自覚的にしている人たちも、中にはもちろんいることでしょう。しかし、そういう哲学なり人生観なりをしっかりもって生きている人ならば、きっと自分は信仰はもたないとしても、宗教の話をしっかりと受け止めることは出来る人だと思います。
 もっとも、宗教についての話が通じなくなってしまったのは、宗教の側にも問題があります。「できるだけ楽をして、最大の幸福を得たい」というのは人間の欲求です。そういう利益追求型の宗教が巷にあふれてくれば、宗教嫌いになってしまうのは、ある意味、健全な人間の反応かもしれません。そんな宗教はこの世の人間と何も変わることが無いからです。
 さて、長々と話してしまいましたが、今まで述べてきたような状況がある限り、どんなに言葉巧みに信仰についてお話しても、そう簡単にはわかってもらえないということはある程度覚悟しておくべきだとわたしは思っています。

 ==放送では、ここで1曲==

 さて、後半ではもう少し、ご質問にそってお答えしたいと思います。

 「どうして宗教を信じる必要があるのか」「宗教は無くても生きていけるのではないか」…これらの質問はよく聞かれる質問です。そして、こういう質問がなされる意図は、大抵、答えを期待していると言うわけではなく、ただ単に「わたしは宗教など嫌いだし、信じる気も無い」と言っているに過ぎません。
 けれども、あえてその疑問に答えるとすれば、こんな風に答えることができるのではないかと思います。
 たとえば、「どうして空気の存在なんか信じる必要があるのか。空気は無くても生きていけるのではないか」と尋ねられたとすれば、誰でもこの質問が半分本当で半分嘘だと言うことにすぐ気がつくと思います。確かに、空気の存在はいちいち気にしたりするものではありません。そんなものの存在は信じようが信じまいが、わたしの生活には関係ないことです。それはそれでよいとして、しかし、「だから、空気なんか無くても生きていける」というのは間違った結論です。
 クリスチャンが神について抱いているのはこれとまったく同じ気持ちです。たしかに、神を信じない人にとっては、神の存在などどうでもよいことです。神を信じなくても生きていけるでしょう。でも、神など必要ないかというと、その結論は間違っているのです。

 さて、先ほどは空気のことを引き合いに出して説明しましたが、それを人間に置き換えて考えてみたらどうでしょう。世の中にはいろいろな人がいます。そのいろいろな人のお陰でわたしたちは生きていけるわけです。たとえば、毎日食べているお米には生産者がいます。生産した物を流通させる働きをしている人もいます。そういった人たちのお陰で、毎日食に欠くことなく暮らしていけるわけです。もちろん、それが誰であるのか、個人的に知っているわけではありません。知らなくても生きていけるわけですから、知る必要もないでしょう。しかし、それらの人々は必要のない人間だというとそんなことはないでしょう。本当ならば、むしろ、その人たちに対して関心を抱くべきでしょうし、ふさわしい感謝の気持ちを抱くべきでしょう。
 クリスチャンが神を知ろうと願い、神にふさわしい感謝と賛美を献げるのはこれに似ていると思います。もちろん、こういう例えが、クリスチャンでない人たちにどれほど説得力があるのか、わたしにはわかりません。少なくとも神の存在そのものを否定する人たちには意味がない説明かもしれません。それでも、気持ちは理解していただけるのではないかと思います。

 ところで、前半で神の存在を信じないで、自覚的に無宗教で生きている人たちのことに触れました。もちろん、わたしはクリスチャンですから、その生き方には賛同できません。しかし、自覚的にその生き方を選び取っていると言う点では、そういう生き方の人たちに敬意を払っています。宗教を持たないで自分自身を律していく生き方がどれほど大変なことであるか知っているからです。
 しかし、自分自身を律するものが何も無い生き方をしているのだとすれば、それは本当に恐ろしいことではないでしょうか。宗教など必要ないという人は、一体自分自身を何によって律していくのでしょうか。

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