タイトル: 「進化論と原罪の疑問」 T・Hさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はT・Hさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「神の御名を賛美いたします。
山下先生いつも番組を楽しみにしています。
私は個人的体験によりキリストの神の存在を確信している者です。そのような私なのですが、どうしても信じられない事がひとつあるのです。この疑問は現代人として、持つ方もたくさんおられるのではないかと思います。それは人間の原罪についての疑問です。
つまりアダムとエバの存在が信じられないのです。現代人として学校教育を受けた私にとって、進化論を否定する事ができないのです。人間が猿から進化したということが否定できないのです。もし進化論が事実だとすれば、いったいどこから原罪が人間に入りこんだのでしょうか。キリストによる罪の贖いとは一体何なのでしょうか。
基本的な疑問ですが山下先生是非番組で取り上げて頂きたく存じます。」
T・Hさん、メールありがとうございました。番組を楽しみに聴いていてくださって嬉しく思います。
お便りの中にもありましたが、「現代人として学校教育を受けた私にとって、進化論を否定する事ができないのです」と言う言葉、確かにそうだと思いました。幼稚園児はどうだか分かりませんが、小学生ぐらいになると、もはや進化論以外の考え方を持っている方が少数派になってしまうくらいです。それぐらい進化論は国民に浸透している教えだと思います。
わたしは元来ひねくれ者なので、こうもみんなが信奉していると、逆にいろいろ違った見方は無いものかとすぐに考えたくなってしまいます。
そもそも日本での常識は世界の常識なのかと言うことを思ってみたりもします。世界の成り立ちについての物の見方というのは、いろいろあるはずです。宗教的にそれを思い巡らす人もいれば、科学的にそれを探求する人もいます。宗教的にといっても、キリスト教のように創造主が天地万物を造ったと信じる宗教から、神々が自然と渾然一体となって万物を生み出してきたと信じる宗教もあります。科学と一口に言っても様々な学説があるはずです。残念ながらわたしは科学者ではないので、細かな学説は分かりません。ただ、科学者の中にも進化論を唱える人もいれば、そうでない学説に立つ人もいます。また、同じ進化論といっても、「人間はサルから進化した」という単純な言い方をしない人たちもいます。
こんなふうに考えてみると、世の中には世界の成り立ちについての様々な考えがあるというのは、紛れも無い事実なのです。宗教的なものの見方は別にしても、科学的なものの見方だけでも、一つではありえません。そんな多様なものの見方の中で「人間はサルから進化した」ということを大多数の人間がほとんど調べることもなく鵜呑みにしているその現実は、とても滑稽であると同時に、恐ろしくも思います。
==放送では、ここで1曲==
さて、ご質問に戻りたいと思いますが、「もし進化論が事実だとすれば、いったいどこから原罪が人間に入りこんだのでしょうか。キリストによる罪の贖いとは一体何なのでしょうか」という疑問、進化論を学問的な定説として教育されてきたわたしたちにとって、当然沸き起こってくる疑問だということは理解できます。
しかし、前半でも触れた通り、世界の成り立ちについての考えは多種多様です。その場合、一つの立場に立ってすべてを説明しなければ意味の無いことは明らかです。原罪とか贖罪という概念はキリスト教的な世界観に立ってはじめて意味のあることです。進化論という立場を前提にした場合、「原罪」という概念は意味のあることなのでしょうか。もし、あえて研究するとすれば、「罪意識」や「道徳観」は、進化のどの段階で生物が習得するものなのかということになるのでしょう。そもそも、そのような研究に意味があるのかわたしにはわかりませんし、それを確かめる方法論もわたしには見当もつきません。昆虫に罪悪感があるのかどうか、一体どうやって確かめるのでしょうか。かりに、昆虫に罪悪感があることが確かめられたとすれば、聖書の原罪についての教えは間違っていたことが証明されるのでしょうか。あるいは逆に人間だけが罪悪感を持っていることが進化論によって証明されたとして、それでキリスト教の正しさが証明されたことになるのでしょうか。そのどちらも、わたしには意味の無いことだと思えます。
それよりもなによりも、身体的形状の変化については進化論の研究の対象になるでしょうが、異なる生物の精神面の発達を進化論的に研究すること自体、不可能な気がします、
そこで、ご質問に関して、わたしなりの考えを言わせていただくならば、こういうことになるのだと思います。
その一つは、世界の成り立ちについての物の見方は、少なくともキリスト教的な見方と科学的な見方と両方があるということです。それぞれ、前提も方法論も違っていますから、二つを同じ土俵の上で比べることは出来ません。一方の概念を他方の概念で説明することも出来ないのです。
従って、科学的な見方の一つである進化論について論じるとすれば、それは科学的・学問的な前提と方法論に立って首尾一貫して検討されなければならない問題なのです。そこに立場の違う前提を持ち込んだり、違う方法論を持ち込んだのでは、学問として成立しなくなってしまうということです。
それはキリスト教について学ぶ場合も同様です。キリスト教は科学の前提と方法論の上に成り立っているわけではありません。神の啓示の上に成り立っているのですから、そこに科学の前提と方法論をもちこんでしまうと、信仰そのものが成り立たなくなってしまうのです。
現段階では科学とキリスト教は矛盾していますが、必ずやキリスト教の正しさが科学によって証明されると考える人もいます。しかし、わたしはそうは思いません。キリスト教の真理は神の啓示によって明らかにされたものであり、科学によって証明することを必要としていないからです。もし、科学によって証明されることだけが、わたしたちにとって意味のある世界観だとすれば、それはあまりにも狭すぎるものとなってしまうことでしょう。
平均的な教育を受けた日本人として進化論の考え方から逃れることは難しいでしょう。しかし、進化論については科学的学説としてその妥当性を問い、それとは別にキリスト教の真理はそれ自身のうちで問われるのでなければ、結局どちらも正しく捉えることが出来なくなってしまうのではないでしょうか。
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