タイトル: 「聖書のみなのにどうして信条を?」 ハンドルネーム 卓さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・卓さんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「突然のメールで失礼します。ずっと前から疑問に思っているのですが、プロテスタント教会では「聖書のみ」が信仰にとって大切であると聞いています。宗教改革も、もともとは教会の中に蓄積された人間的な言い伝えや慣習を一掃して、聖書の教えに立ち返ったのだと理解しています。
しかし、プロテスタント教会の中には信条や教理問答書を持っているところが少なくありません。それは「聖書のみ」という宗教改革のスローガンと矛盾しているのではないでしょうか。口では「聖書のみ」ということを言いながら、実際にはことあるごとに「信条」や「教理問答書」にうったえるのは、何か矛盾しているように思います。
いったい聖書と信条はどっちが大切なのでしょうか。その辺の考えをお聞きかせてください。」
ということなんですが、卓さん、メールありがとうございました。確かに卓さんがご指摘の通り、プロテスタント教会では新旧両約聖書66巻だけが神の言葉であり、それ以外のところに神の言葉はないと主張して来ました。従って、信仰と生活に関わることは、最終的にはこの神の言葉である聖書によってのみ正されるとプロテスタント教会では考えています。
そして、この点こそがプロテスタント教会とカトリック教会との大きな違いであると言われています。
しかし、ほとんどのプロテスタント教会では信条と言われるものや教理問答書と呼ばれるもの、あるいは信仰告白と呼ばれるものを持っています。そして、そのうち特に使徒信条、ニカイア信条、カルケドン信条、アタナシオス信条の四つはエキュメニカル信条と呼ばれ、カトリック教会もプロテスタント教会も共通してもっている信条です。カトリック教会とプロテスタント教会が共通して信じている信条と言うことを聞くと、ちょっと不思議に思われるかもしれません。もしそうだとするなら、卓さんが疑問に思われるように、プロテスタント教会が主張する「聖書のみ」というスローガンは一体どういうことになってしまうのでしょうか。
プロテスタント教会が「聖書と信条の関係」をどんな風に捉えているのか、後半で取り上げながら、卓さんの疑問に答えてみたいと思います。
その前にここで一曲聞いていただきたいと思います。
==放送では、ここで1曲==
さて、きょうは聖書と信条の問題を取り上げています。前半でもお話しましたが、プロテスタント教会は聖書だけが信仰と生活の権威ある唯一の基準であると考えています。それは聖書だけが神の言葉であると信じているからです。しかし、同時に、ほとんどのプロテスタント教会では、自分たちが何を信じているかをまとめた信条と言うものを持っています。少なくとも使徒信条はどのプロテスタント教会でも大切に扱われています。前半でも挙げましたが、使徒信条を含む四つのエキュメニカル信条というものがあります。教会が信条を作成したのはこの四つの信条でストップしてしまったわけではありません。特に宗教改革の時代には自分たちが何を信じているのかをまとめた信条や教理問答が教会の手によってたくさん生み出されました。教会によってはこれらの信条も、ある意味で、信仰と生活の基準として尊ばれています。もちろん、それらの信条が神の言葉であるとは信じられているわけではありません。
では、聖書と信条とはどんな関係にあるのかと言うと、聖書はそれ自体が神の言葉であり、信仰と生活の基準としてもっとも権威ある書物です。権威に関してほかに何も必要としないと言う点で、聖書だけで十分と言うことが出来ます。
しかし、それに対して信条というのは、それ自体に権威があるものではありません。そこに書かれている事柄は、聖書に記されている事柄に対して、わたしたち信仰者が何をどう信じ、どう応答しているかということを自分たちの言葉で表現したものです。従って神の言葉である聖書がなければ、信条にも意味がありません。信条に記される内容はあくまでも聖書の内容に沿ったものです。
しかし、もし、そうであるとするならば、なおのこと信条を持つ意味がわからないとおっしゃるかもしれません。どっちみち聖書があれば十分なのですから、信条など持つ意味がないと思うのも無理もありません。
しかし、聖書と言うのはわたしたちが知りたいと思うことを知りたいと思う仕方で記してくれているわけではありません。
たとえば神とはどのようなお方か、キリストの救いはどのような救いか…こうした事柄を聖書は決して体系立てて教えているわけではありません。聖書全体を通して、これらについて聖書が何と語っているか、それを記したものが信条なのです。
もちろん、信じるべき事柄について聖書が何と語っているかは、個人個人が聖書を読んで判断することかもしれません。あるいは偉い聖書学者が研究して発表するものなのかも知れません。もちろん、それも大切なことです。しかし、信条と言うのは個人的な見解でも学説的な見解でもありません。教会がそのことについて聖書からくみ出した公式の見解なのです。
ただ、聖書があるからと言うだけでは、具体的な教会の一致はありえません。大切なのは、その神の言葉である聖書を教会ではどう読んでいるかなのです。そして、それを表したものこそ、「信条」ということができるのです。
こういう例えは仏教徒の方に失礼かもしれませんが、もし信条が無ければ、例え聖書をもっていたとしても、それは意味のわからないお経を大事にしまっているのと同じです。大半の門徒にはお経の意味は分からないでしょう。むしろお経の意味よりも、どのお経を唱えているかの方が仏教信徒にとっては重要です。しかし、キリスト教会、特にプロテスタントでは、聖書と言う本そのものが霊験あらたかなのではなく、そこに記された意味を分かってこそ、神の言葉としての意味があるのです。
「聖書のみ」という主張は、みんなが同じ聖書を所持しているとか、同じ聖書の字面をただ読んでいると言うことではありません。その聖書をどう読み、どう捉えるか、そしてそれを自分たちの言葉でどう表現するか、そこまでを含めて「聖書のみ」ということが言われるのです。「聖書と信条と、どっちが大切か」なのではなく、聖書が大切だからこそ、それをどう読んでいるのか、それを確認する信条の作成が必要なのです。