タイトル: 「あるがままの自分とは?」 千葉県 S・Iさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は千葉県にお住まいのS・Iさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、こんにちは。いつも番組を聴いていてなるほどと思わされます。
この間、元XJapanのトシさんのトークショーがあったのですが、トシさんは、他人を蹴落としてでも勝たなければならない『生活』にピリオドを打って、現在、障害者の施設を回ったりして、音楽活動を続けているのだそうです。トシさんは『あるがままの自分でいい』ことに気づいて、格好をつけたり、肩肘をはるのをやめて、楽な自分になったそうです。
そんな中で、聖書や教会のいう『あるがままの自分』って一体何なんだろうと考え、今回思い切って質問することにしました。よろしくお願いします。」
ということなんですが、S・Iさん、いつも番組を熱心に聞いていてくださってありがとうございます。今回のご質問、実は私自身も色々と考えてきた疑問で、自分の考えをまとめる上で、これが丁度よい機会になりました。
最近「あるがままの自分」ということをよく耳にします。キリスト教会の中でも、一般の社会の中でも、この「あるがままの自分」を肯定的に受け止めていくことが大切だというようなことが言われています。
「あるがままの自分でいい」と言う場合の「あるがままの自分」というのはいったい何なのでしょうか。「あるがまま」というのと語呂が似ていて、全然違うものに「わがまま」と言う言葉があります。「あるがままの自分」と「わがままな自分」というのは全然違います。「わがままな自分でいい」などど、だれも思いたくはないはずです。しかし、「あるがままの自分」は時として「わがままな自分」であることもあります。本人が「自分がわがままだ」と自覚していない場合、「わがままなあなたはダメだ」と否定されてしまったら、それは本人にはとても辛いことでしょうね。
それから、誰にでもあることですが、「自分サイズの自分」と「理想サイズの背伸びした自分」という二人の自分が自分の中に同居している場合があるように思います。お便りの中に出てきた「あるがままの自分」というのは、背伸びをしたり、無理をして到達できるような理想的な自分の姿ではなく、まさに、現実の自分ということなのだと思いました。しかし、人間と言うのはある程度理想を描き、プライドを持っているからこそ向上していくと言う面もあると思います。それも含めて「あるがまま」なのかもしれません。
そう考えていくと、「あるがままの自分」というのは奥が深い問題を孕んでいるように思います。
さて、キリスト教的に「あるがままの自分」をどう考えたらよいのか、後半で考えてみたいと思います。その前にここで一曲聞いていただきたいと思います。
==放送では、ここで1曲==
「あるがままの自分」ということをキリスト教的な視点から考えるとどういうことになるのでしょうか。誰しも「あるがままの自分」以外のものであることは出来ないのですから、結論から言えば「あるがままの自分でいい」と言うことになるのかもしれません。と言うよりは、むしろ「あるがままの自分でしかいられない」と言った方が正確かもしれません。
聖書には理想的な人間の姿と現実的な人間の姿が描かれています。聖書の人間観の前提には、人間は誰しも罪によって堕落しているという現実があります。ですから、聖書には人間のあるべき姿と、現実の姿とが両方描かれるわけです。
そういう意味では、聖書は人間が堕落したままの状態でいいなどとは考えていないことは明らかです。「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となりますように」(フィリピ1:10)とパウロが祈っているとおりです。
しかし、同時に、その問題の解決を人間自身にすべて求めているのかと言えば、そうではありません。罪ある人間が罪ある自分を変える事は不可能だからです。信仰によってキリストの救いを受け入れ、わたしたちを清める聖霊の働きに謙虚により頼む以外に方法はありません。そして、何よりも驚くべきことは、神はこの堕落した人間を愛して救おうと決意されたと言うことです。そういう意味では、欠けたところの多い、罪にまみれた「あるがままの自分」であっても、神の愛を受けるには十分なのです。理想的な自分になれたから、神はその人を愛し救ってくださるのではありません。むしろあるがままの自分を認めて、神の御前に自分を差し出し明渡すことが大切です。
さて、これとは別の意味で、聖書は「あるがままの自分」ということを語っています。聖書によれば、人は一人一人、神によって造られた存在です。一人一人の顔が違っているのと同じように、一人一人に与えられた才能や性格も違っています。つまり、神は一人の人間を造る時に、たった一人で自己完結して生きていけるようにはお造りにならなかったわけです。一つの共同体として人間がそれぞれに与えられたものを生かしあいながら生きるようにされたと言うことです。そういう意味では、みんながあるがままの自分を互いに否定しあっていたのでは、共同体として機能しなくなってしまいます、あるがままの自分を用いてどう貢献していくのか、あるがままの他人を受け入れて、どう貢献していただくのか、そのことが人間には求められています。神が定めたそういう社会が成り立っていくためには、自分が先ず自分をあるがままに受け止め、また、他人をあるがままの人間として受け入れていかなければならないのです。
そういう意味で聖書は「あるがままの自分」を大切にするように求めていると思います。
このことは決して新しいことにチャレンジする精神やよりよく生きようと才能を開発する向上心と矛盾するものではありません。そうしたチャレンジ精神や向上心も含めてありのままの自分を受け止めて生きていくことが大切だと聖書は教えているのではないでしょうか。
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